トヨタは似合わないんだ



先日久々に家族揃って出かけた。




向かった先は、伏見にある大手筋商店街にあるお寺へお礼参り。





去年からなかなか治らなかった息子の中耳炎。



最後は神頼みだと耳に効くお寺へお参り今年の始めに行き、その効果か?完治することができた。




お守りを返し、お礼を言って寺を後にした。






ついでに大手筋商店街をぶらつくことにした。




人でにぎあう商店街だが、グラサン姿の夫だけ妙に浮いている。






普通の家族連れがあふれかう場所は、夫はことごとく浮くのである。






グラサンの奥の目が、すでに「早くここから出よう」と言っている。









商店街から程近くに寺田屋があるが、まさかそこへ行こうなんていう雰囲気にもならない。






息子が、



「モスバーガーに行きたい!」

と、モスを指差した。





ここへ来て、モス。




夫が意外にも、


「ほな、入ろか」と言った。






モスのおもちゃをもらって喜ぶ息子と、モスバーガーをかじる、夫。




グラサンの奥の目は、



「これ食ったら早く帰りたい」と言っている。





奇妙すぎる光景に、わたしは無言でハンバーガーを頬張った。




早々にモスを後にし、大手筋商店街の滞在時間は40分ほどで、パーキングの料金は300円だった。




そのあと車屋へ向かった。




我が家の愛車、キズヘコミ多数、走行距離10万を超えたウイングロードを買い換えるか迷い、中古車屋へ市場調査に行ったのである。





同じステーションワゴンタイプのカローラフィルダーを発見した。



年式はちょい古めだが、走行2万という奇跡の数字だった。状態もきれいだ。




しかし、夫がカローラの前に立つと、また奇妙な空気になった。





なんでこんな違和感を感じるのだろう?と考えると、





夫が、トヨタの車が、まるで似合わないことに気づいた。









こんなにトヨタが似合わない人がいるのかと、初めて知った。






きっと、ホンダも似合わなそうだと思った。





夫が似合うのは、日産か、ちょっといかつめの外車といった具合だ。







お店の人と少し話して、後にした。





車屋近くに遊具がある広い公園があり、息子がそこへ行きたいと言った。





大きな滑り台があり、近所の子供もたくさんおり、息子も大変はしゃいで喜んでいた。





ラクダの遊具に腰掛け、わたしはぼんやり子供を見守った。







車を止めてくると立ち去った夫は一向に来る気配がない。





20分ほどして、後ろを振り返ると、横のグラウンドの少年野球の試合を、腕組をして見ている夫がいた。





自分の子供がその試合に出てるわけでもないのに真剣に見ている姿勢は、よく見るおっさんの光景である。




40を過ぎるとこうなるのであろうか。






しばらくして息子の方へゆっくりと歩いてきて、ラクダに座るわたしの横で、険しい顔をして見守る夫。








「一緒に滑ってきたら?」と夫に声をかけると、




渋い表情で足取り重く、滑り台へ向かった。




楽しそうな子供たちと、グラサン姿のおっさんひとり。




険しい表情をして滑り台を滑る夫。






グラサンの奥の目は、





やはり「早く帰りたい」と言っている。







帰宅してから、何もしてないのに、ぐったりと疲れた。





よくわからない休日であった。









この日わかったことは、夫はトヨタの車が似合わない、ということだけだった。











秋晴れの公園
誰よりも浮いてる
ぼくのおとうさん



(自由律俳句)






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# by mosottto | 2018-10-29 15:25 | エッセイ | Comments(5)




幼い頃から動物全般に興味がなく、近所の野良猫もかわいいと思ったことがないし、親に頼んで飼い始めた金魚も二匹、一週間で死んでしまった。






あえて動物の思い出を挙げるとするなら、7才のときに野良犬に追いかけられた体験である。



今では滅多にお目にかかることがなくなった野良犬だが、80年代後半の京都の田舎町にはまだ普通に存在していた。








その日、わたしは自転車に乗りながら、土管が置いてある空き地(ドラえもんに出てくるようなあの雰囲気である)の前を通りかかった。


何気に土管の方に目をやると、野良犬の家族がいた。

仔犬数引きに、親犬一匹。





育児中のメス犬に目を合わせてはいけないことを、その時初めて知った。



ばちっと目があった親犬は、突如こちらの方に猛烈な勢いで走ってきて、わたしは危機迫るものを感じて自転車をこいだ。




人生であんなに自転車を必死にこいだことは、ない。



後ろを振り返ると、1メートル近くまで野良犬が迫っており、牙をむき出しにし、よだれをたらし、目が血走り、その形相は凄まじかった。





必死に自転車をこぎ、道路を飛び出したあと、わたしと野良犬の間に車が走ってきたので、野良犬は仕様がなくそこで立ち止まり、事無きを得たのだが、吠え続ける犬の姿は7歳の子供にとっては恐ろしさ以外の何物でもなかった。



そんな体験をしたせいか、ますます犬が嫌いになった。





しかしどんな小さな犬でも触るのが怖い自分が嫌になり、子犬から飼えば、克服できるんじゃないだろうかと思い立ち、父親に言ってみた。



「うちは犬飼わないの?」



すると父親は昔飼っていた犬(母と結婚するうんと前の話だ)の話をし始めた。



雑種の犬で、ある日近所の大きな犬に、噛み殺されたらしいのだ。






壮絶すぎる結末に、わたしは顔が引きつった。





「犬はもう飼わん」





力ない父親の声に、小学生ながら心中を察し、それ以上犬の話は父にできなくなった。








それから数十年が経ち、今年、犬を飼い始めることになった。




夫の実家で飼っていた犬である。



11歳の柴犬の血が入った雑種で、名前はくーちゃんと言う。





事情があってうちが引き取ることになったのだが、最初渋っていたのは、わたしである。



くーちゃんはとても人懐っこく、大変甘えたな性格であるため、犬嫌いのわたしでもすぐに触れることができたのだが、毎日の散歩が面倒で正直飼いたくなかった。





ギリギリまで渋ったが、諸事上により飼うことになった。



夫には、


「朝の散歩は行ってな。朝はバタバタするし、わたし無理やし!」と釘をさした。


本当に散歩に行くのが面倒臭かったのだ。









しかしくーちゃんとの生活初日の朝、なぜか散歩に行こうと思った。






朝はわたしが一番早く起きるし、なんとなく、行ってみようかなと思ったのだ。







外は明るくなりだし、朝の空気はとても澄んでいた。



周りは田んぼや畑があるので、見晴らしもいい。




ふと東の方に目をやると、日の出が見えた。




広大な田んぼと、日の出。


その景色の美しさに、





「くーちゃん見て、きれいやわ」と、話しかけるも、くーちゃんはきょとんとわたしの顔を見ていた。



道端に咲く花を見ては、





「くーちゃん見て、きれいな花やなあ」と話しかけ、またくーちゃんはきょとんとしていた。





家に戻るとなんとも清々しい気分になった。




次の朝も、わたしは散歩に行った。



また次の日も。



夕方の散歩も毎日行っている。





面倒くさいとあれだけ思っていたのに、まったく苦にならない。


たまに夫が散歩に行くと、ああ、と思うくらいだ。








家のデッキに出ると、くーちゃんがわたしにすり寄ってくる。





顔をつけて、身を寄せて、甘えてくる。




体をさすってあげると、とても気持ちのよい顔になり、さらにくーちゃんの体はだらける。







犬とのいい思い出なんてちっともなかったけど、くーちゃんがすべてを癒してくれているかのように思えてならない。












犬の散歩で
かたつむり見つけ
息子のために持ち帰る

(自由律俳句)






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# by mosottto | 2018-10-12 13:14 | エッセイ | Comments(6)

ふくちゃん





ふくちゃんという男の子がいた。




彼は美大で彫刻を学びながら、ある店でバイトをしていた。



当時働いていた仕事場から近いこともあり、わたしはちょくちょくその店に顔をだし、ふくちゃんと知り合った。



髪は伸ばしっぱなしでいつも後ろでお団子状にくくり、黒縁の眼鏡をかけて、うっすら髭をはやし、友人にもらったという古着ばかり来ていた割には、汚くなく、なぜか雰囲気がある佇まいであった。






ふくちゃんのあだ名は’ペルー仙人’だった。

南米のペルーを旅していたことから由来するらしい。


確かに、ふくちゃんには、ヒマラヤで長年修行をしてきたような、俗世間とは一種かけ離れている空気感があった。




人と出会ったときに、多少「この人はこんな人かな」という先入観なるものを誰でも持つと思うのだが、ふくちゃんにはその先入観というフィルターがまったくないように人を見ているようなふしがあった。




ただそのままを見ているような、自然体な眼差し。





だからか、そんなふくちゃんは周囲の人に可愛がられていた。





あるとき、友人の誕生日パーティをすることになり、A4サイズの紙をふくちゃんに渡し、




「ここにお誕生日おめでとう⚪︎⚪︎(友人の名前)って大きく書いてくれない?」と頼むと、



ふくちゃんは「わかった」と言って、いきなり大きな文字で書き始めた。







「お誕生日」の文字ですでに、紙が埋まってしまっている。







わたしは度肝を抜かれ、ここからどう書いていくんやろ、と息を飲んで見ていたら、





下の狭いスペースに小さな文字で「おめでとう」と書き始めた。




しかも、「う」までたどり着けず、矢印で「う」を上のスペースに持って行ったのである。






わたしはとにかく感動した。




バランスとか、枠とか、ちゃんとここに収まるようにという概念をぶち壊した表現に。





ますますそういうふくちゃんがだいすきになった。









ある晩、友人何人かで深夜まで遊び、帰り道がふくちゃんと一緒で、お互い自転車をこいでいた。





途中で雨が降り出し、アーケードに入って雨宿りした。




しばらくしたら止むだろうと思っていたが、一向に止む気配がなく、わたしは苛立ちはじめ、



「こんな雨待ってられん。寒いし!わたし、帰るわ」と言うと、ふくちゃんは一瞬ぎょっとした顔をして、あわてて着ていたパーカー付きのウインドブレーカー(撥水加工されたいいやつだ)をわたしに渡した。




「これ、着て帰って」



ふくちゃんを見ると、薄いスウェット地のトレーナー一枚だった。


冬も間近の寒い夜である。





「いいよ」と返そうとすると、




「これ渡さんかった、一生後悔するし、着て帰って」と、ふくちゃんは遠慮がちに言った。





土砂降りの中、わたしたちは自転車をこぎ始めた。



無言だったふくちゃんが、最後の別れ際に、



「急いでも、ゆっくりでも、雨に濡れる量は一緒らしいし、急がんと気をつけて帰ってな」





そう言い残して、別の方向に帰っていった。




帰り道、雨に打たれながら、





「急いでも、ゆっくりでも、同じ」と、ふくちゃんが言っていた言葉を思い出しながら帰った。





数日後ウインドブレーカーを返しにお礼を言いにいくと、ぶっきら棒に受け取り、少し照れくさそうだった。








それからしばらくして、仕事帰りにお店によると、ふくちゃんが店のオーナーと何か深刻な話をしているようだった。




どうやらバイトだったふくちゃんに、店長にならないかという話らしく、でもふくちゃんは自分のしたいことがあるので拒否してる風であった。



オーナーは「自分のやりたいことをするにも、組織で3年は働いてからした方がいい」と、まっとうな意見を述べていて、ふくちゃんは、諭されているけど納得がいかないような顔をしていた。



組織でまっとうに働いたとしても、それはふくちゃんのしたい生き方なのか?と疑問になりながらも、そのやりとりをぼんやり見つめていた。








数ヶ月後、共通の友人から、


「ふくちゃんが店を辞めて、自転車で沖縄に向かってる。今は四国らしい」と聞いた。




その朗報を聞いて、



やった!ふくちゃん、となぜか胸が躍ったことを覚えている。







それからしばらくふくちゃんの消息を知らずに、時間が経過して、忘れた頃に友人から知った。




「ふくちゃん今は沖縄にいて、知り合った女の人と一緒にゲストハウスしてるらしいよ」





二人に会った友人によると、素朴なかんじの女性だったと言っていて、なぜだかうれしくなった。








これは10年近く前の話だ。






今ふくちゃんは沖縄にいるのか、それとも違う国にいるのか、何をしているのかはまったく知らないが、きっと自然体にふくちゃんらしい生き方をしているんだ、と思っている。










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# by mosottto | 2018-10-03 12:43 | エッセイ | Comments(4)

ウチナータイム





うちの夫はとても時間軸がゆるい。


例えば9時に家を出るよと伝えたら、用意して家を出る時間は10時過ぎ、といった具合に。



30分押しは早い方で、大体支度に小一時間かかっている。


化粧をするわけでもなく、軽いモヒカンでセットに時間がかかるわけでもなく、なににそんなに時間を要しているのかとこの間観察してみたら、大概はMACの前でぼんやりとしていて、出る間際に5分くらいで急いで支度するといったかんじだった。





その為、押し時間を見越して、出発時間を伝えるようにしている。



9時に出たい場合は、


「8時に出るし」と伝える。




それでも、オーバーすること多々あり。





夫のその時間軸をひそかにウチナータイムと呼んでいる。








日本は大変きっちりした国だ。



ルーズな人もいるが、大概の人はきちっと時間通りに動く。






ブラジル、キューバ、メキシコといった南米で暮らした経験のある夫に、



「南米はどないなってんの?約束の時間とか、ゆるめ?」


と、聞いてみたところ、




「人によって違う。でも、待ち合わせで時間内に行かないと、「置いてくぞ」ってさすがに言われる」




日本よりはわりとゆるめなイメージの南米でも、ウチナータイムで過ごして周りをイラつかせている夫に、軽く引いた。



今年のメキシコ滞在中も、支度が遅い夫に、メキシコ人の友人が、



「、、メキシコ人より、メキシコ人ね」


と言われていたらしい。








結婚1、2年はそのウチナータイムにイライラしていたが、最近では自分もウチナータイムが軽く伝染し始めて、




長年信じてきた5分前行動がついに崩壊したのである。







時間になっても焦らないし、なんならオーバーぎみである。



たまに夫の方が支度が先に終わり、


「まだなんか?!」


と、イラつかれることもある。





夫婦揃って、それでいいのかと思ったりもするが、せかせかと時間に操られ動くことが不自然ではないのかとさえ思い始めた。







反面教師が出たのか、我が息子は時間をきっちり守るタイプである。












焦らない

残りの5分に過集中

(自由律俳句)







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# by mosottto | 2018-10-02 10:02 | エッセイ | Comments(4)

パンツだけはやめてくれ



結婚して6年目、夫への誕生日プレゼントは、毎年少し値が張るブランドの下着を贈っていた。



理由は二つ。


普段そんな何千円もするような下着を買わないし、見えないところにお金をかけてるのが、おしゃれだ。


そして、毎回何にしようか悩まなくても済む(悩むのは、柄だけ)




3、4年目までは、反応は良かった。




「お、今年は、これか。いいやないか」




だからもうこれは定番になっていくものだと思い、今年もデパートの下着売り場まで買いにいき、用意していた。





今年は赤がテーマだ。




誕生日の一週間前に、



「もうすぐ誕生日やな」という話になった際、夫の顔が一瞬険しくなった。








「もう、パンツだけはやめてくれ」






え?



思わず聞き返すと、




「もうパンツだけは嫌や。もういらん。勘弁してくれ。パンツは嫌や、パンツだけは!」



と、朝からパンツを連呼する夫。





棚の奥の方に閉まってある、ラッピング済みのパンツのことを考えた。





もう、買ってしもてるやん。




喉まで出かかったが、あえて言わず、




「なんで嫌なん?」と冷静に聞いてみると、








「プレゼントを開けるときの、どきどき感がまったくない!」


という、極めて女子的な返答だった。







「パンツなんてその辺の安いやつ買うし、もうパンツだけは!」




夫の目は真剣だった。









仕様がない。









とりあえずデパートへパンツを返品しに行き、理由をそのまま店員に伝えると、軽く苦笑いされた。






そのあと、ブラブラと街を歩いた。




そして今まで夫が家族に贈ったプレゼントを思い返した。





夫が選ぶものは大抵、「なぜそれを?」と思うような置物だったり、少し凝ったもので、非実用的な物が多い傾向にあることに気づいた。





アジアやアフリカ系の民芸品を扱ってる店なら何かあるだろうと狙いを定め、店に入り物色した。




アフリカ製の藍染のストールが気になったが、少し中尾彬を連想してしまったので、やめた。



身につけるものに関して、こだわりが非常に強いので、どれをとっても首をかしげてしまう。






そして銅製で、蓋に非常に凝った彫刻が施されている中国の民芸品らしきピルケースを見つけた。




蓋の内側が鏡になっており、女子っぽい感覚を持った夫にぴったりである。




これはかなり好きそうだ。




中身が空だと面白げがないので、ケニア製の牛骨のアクセサリーパーツと、ネパール製の瑪瑙のお守り石も入れて、ラッピングしてもらった。


そこの店員に事の経緯を話すと、軽く苦笑いされた。




土壇場でなんとか誕生日プレゼントが決まり、ほっとして帰宅した。




久しぶりにエネルギーを使って、どっと疲れ、普段飲まないグリコのカフェオレを流し込んだ。












当日夫に渡すと、



「ありがとう」と、安堵の表情を見せた。







20年後には、わたしは夫に何を贈っているのだろうか。





まったく想像がつかない。


















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# by mosottto | 2018-09-07 15:08 | エッセイ | Comments(8)

もそっと家の夏休み


我が家のこの夏の思い出といえば、日本海への海水浴である。



台風が去ったあとで、海は大荒れ(だからサーファーがたくさんいた)、尋常ならぬ暴風。



そんな悪条件の中、我が家族は砂浜に降り立った。




まず砂浜にワンタッチのテントを張ると、ものすごい暴風でテントごともっていかれそうになり、ビールの缶の中には砂が入りこみ、じゃりじゃり言うわで、のっけから穏やかでゆったりとしたトロピカルなビーチとは対極の、サバイバルビーチとなった。




そんなサバイバルビーチにも関わらず、家族連れや若い男女がけっこういるではないか。


周りにいる子供の浮き輪が暴風で飛ばされ、孫の浮き輪を取りに行けず、途方にくれるじいさんの姿をなんども目撃した。





海へ飛ばされたら最後、あっという間に沖まで流されるのである。あきらめるしかない。


じいさんや孫たちの力のない、


「あーー」

という声がビーチに漏れていた。




台風後の海なので、気温も大分下がっており、海から上がるとガタガタ震えだすほど寒い。


それでも5歳の息子は海を満喫し、この上ないほど盛り上がっていたが、最後は唇が真っ青になって笑いながら海から上がってきたので、退散することにした。


わずか1時間半ほどの所要時間である。







そのあと、夫がなぜか「お茶したい」と言い出し、ビーチ近くを散策した。



PIZZA


と書かれた看板が目に入り、外観もこじゃれた感じで、この田舎町にふさわしくない店構えだった。



「コーヒーくらい飲めるやろう」と、夫は意気揚々と店へ入ると、



一瞬で店内がざわざわしだした。



「お茶だけいけますか?」との夫の投げかけにも、店員たち(ぱっとみたところ、息子夫婦が切りもりして、その両親が手伝ってる風であった)は「あ〜ちょっと待ってください、、」などと、口がまごまごしだした。





「あんたらピザ屋に来てピザ注文しまへんの?」ということなのか?



それとも、モヒカンでグラサン姿のいかつさ極まりない風貌の夫を見て躊躇しているのか、定かではない。



しかし、なんとなくしれっとした空気が店内にあったので、「あ、やっぱりいいです」と店を出ることにした。






「お茶がしたい」と女子的な発言をしてるんるんであった夫のテンションは一気に下がり、


「あのピザ屋め、一見さんはお断りなんか?お茶だけやったらあかんかったんか?それとも俺の風貌にビビってたんか?!」

と、静かに苛立ち始めた。





「まーええやんか」と流そうとするも、



夫は車内でずっとピザ屋に対する憤りをぶつぶつとぼやいていた。






車を少し走らせると、純喫茶風の店があり、仕切り直しでそこに入ることにした。




店内にはオーバー70、いや80代かもしれないおばあちゃんが一人でせっせとコーヒーを淹れていた。



さっきのピザ屋の件があり、夫は警戒心むき出しで店をのぞいた。



「大丈夫やて、ここは」と言うも、まだ疑心暗鬼の夫。



ゆったりと晴れやかな顔でおばあちゃんが「どうぞ〜」と迎え入れてくれると、夫の表情は一気に和らいだ。





アンティーク風のテーブルと椅子、少し暗めの照明、どこの国の置物かわからない木彫りの人形、手作りのレース編みのコースター、その「おばあちゃん家に来た感」が充満した店内に、我々はくつろいだ。



「ええ店やな」と、一気に気を許した野良猫のような表情になった夫。



だがその直後に、


「さっきのピザ屋が〜」と、またぶり返しそうになったので、



「もうええやろが」
と、少し苛立ちながら流した。




息子はアイスクリーム、わたしはクリームソーダ、夫はコーヒーフロートを注文した。





すべてを一人でこなしているので、注文してから少し時間を要するも、このなつかしい雰囲気に我々はまったりとした時間を楽しんだ。



息子が注文したアイスクリームには、さくらんぼと、ポッキーが二本ささっていて、昭和感あふれるガラスのデザートグラス、これをあのおばあちゃんがこしらえてくれたのかと思うと、懐古的な気分になる。



クリームソーダはえげつげないくらいの緑色で、一気にテンションが上がる。






夫はゆっくりと分厚いハードカバーの『アフリカ神話』という本を広げ、熱心に読み始めた。



この本をさっきのピザ屋で読もうとしていたのかと思うと、少しぞっとした。





純喫茶を十分に堪能して、おばあちゃんの晴れやかな笑顔で見送られ、我が家の夏の思い出は無事に終了したのである。














波乱の幕開け

サバイバルビーチ

終わりよければすべてよし


(自由律俳句)













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# by mosottto | 2018-08-29 13:41 | エッセイ | Comments(2)


5歳の息子は段ボールや、ティッシュの箱、ストロー、セロテープなどを使って、日々創作活動に励んでいる。



最初はカメラ、ロボットなどわかりやすいものだったが、最近では説明を聞いても全くよくわからないものに、とりかかっている。




彼の中では完璧に意味のある構造なのだ。


いや、むしろ、意味なんてものを求めることすら、野暮のように思えて、無言でただ創作活動を見守っているわけだ。




先日、夫が自分の部屋にこもり、静かに集中していたので、ふと覗いてみると、



ノートに円と幾何学的な図柄が描かれていた。



なんかの模様?と聞くと、


夫は、ふーと息をつき、



楽譜を図にしてみることを試みているんや、と真顔で言った。



楽譜を図に?






全く意味がわからない。






図にすることで、説明するときにわかりやすく伝わるのではないか、という意図らしいが、その発想自体がよくわからないので、



そうなんだ、とだけ言い残して、静かに襖を閉めた。




我が家にいる男ふたりは、実に生物として、極めて男らしい行動をとっている気がする。



実用性とか、そんな次元に彼らはいない。(彼らの中では実用的なのかもしれないが)



興味のあるものに、執拗に熱中し、創造性の中で生きている。







去年飼っていたカブトムシが20匹子供を産み、見事に成虫になり、うじゃうじゃと虫かごで動き回っている。




わたしは夕食の後片付けとごみだしをして、床にごろんと横になり、ただだらけた。








カブトムシ

驚異の食べ盛りに

餌代がばかにならない

(自由律俳句)
























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# by mosottto | 2018-07-21 19:31 | エッセイ | Comments(6)




先日仕事でイベントに出店した際、地味〜に隅の方に置いておいた、自作のフリーペーパー。



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去年、思い立って狂ったように作った冊子である。



それに興味を示し、持ち帰ってくださる方が結構いて、作った本人が一番が驚いている。








ほぼ役に立たないフリーペーパーと、わざわざ名を売っているというのに。



これはどういうことだろうか?と首をかしげた。






「配りたいからもう少しほしい」

と声がかかり、急いでコピーに走り、紙を折り、かちっとホッチキスで留めるという地味な作業を繰り返した。





読みたいと言ってくださる声は、もはや神の声に近い。



まったく知り合いでもない方に読まれる分には平気なのだが、身近な人に読まれるということほど、けっこう恥ずかしいのだということも知った。





フリーペーパーをちらつかせていると、真っ先に興味を示したのが、夫だった。





真顔で「読ませてくれ」

と言ってきて、軽くしぶると、



「ちょっと!読ませてよ!」と執拗に食い下がってきたので、しぶしぶ渡した。



その場で静かに読み始めた。




この目の前で読まれているという状況が、耐え難い。




試験でも受けているかのようだ。



読み終わって、「どうやった?」と夫に聞くと、


「西加奈子の影響をもろに受けている文章やな」と、言い放ち、四コマで使用しているスペイン語の訳が少し違っていると添削まで受けた。

その後こういうものを載せたらいいなどとアドバイスをしてきたが、内容はまったく覚えていない。









2号目に取り掛かろうと思いつつも、まったくアイデアも何も浮かんでこずに放置してたが、そろそろ着手しないといけない気配がしてきた。




先日日本に来た友人のメキシカンファミリーとの、京都奈良観光の珍道中をネタに書いていこうかなと考えている。












ネタの宝庫の


我が家なのに


まったくまとまらない


(自由律俳句)






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# by mosottto | 2018-06-26 09:47 | エッセイ | Comments(10)



最近暑くなってきたためか、夫の服装に変化が見られる。



部屋着はタイパンツにランニング。



外着はランニングに短パンでビーサンにもちろんグラサン。





京都でよく見られる欧米系の外国人観光客のスタイルと、ほぼ変わらない状態である。





先日岡崎にある親戚のマンションに行ったところ、「(夫が出入りしてると)民泊やってると思われる」と言われていた。








格好だけ外国人風というのは別にどうでもいいことなのだが、会話においても外国人風だと、正直面倒臭いことが多々有る。





例えばこの間、萌え系アニメキャラについて夫と議論になった。



夫はこの萌え系自体が嫌いなので、猛烈にバッシングするのである。


わたしはそんなの好みだし、バッシングする意味がわからないと発言すると、そこからディベートの嵐である。




あまりにかぶせてくるので、正直面倒臭くなり、どうでもいい空気を流しにかかると、



「議論は重要や。好きだという権利があるなら、嫌いだという権利もある。なんちゃらかんちゃら(割愛)」



どうにかフェードアウトさせて、蕎麦屋で機嫌よく蕎麦を食べてると、思い出したかのように「萌え系のことは〜」と言いだしたので、



「もうええやろ!」と、軽くキレて、話を終わらせた。




ただ蕎麦を食べたいだけなんだ!






こういう具合で萌え系というライトなネタはまだ序の口なのだが、日本や世界の政治経済などの重いネタにうっかり口を挟んでしまうと、すぐさま熱い議論が始まってしまう。




海外にいると、議論は当たり前で、コミュニケーションの一部だと夫は言うのだが、正直なところ、唾を飛ばしながらディベートすというのが日常の環境には、できるだけ身を置きたくないと思ってしまう。






なあなあな日本人気質でわたしはいい。













ディベートより



こたつで横になって



うたた寝したい


(自由律俳句)
















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# by mosottto | 2018-06-10 20:14 | エッセイ | Comments(2)




義母の愛車はベンツである。


昔から、というわけではない。







ずっとダイハツの軽に長年乗っていた。


しかし、ちょいちょい、


「外車に乗るなら、アウディがええわ〜憧れや〜」などと、外車への憧れを心に潜めていた義母であることを、わたしは知っていた。





去年、ある日突然、



「ちょっと、話があるねん」



と義母が言うので、




還暦を過ぎた姑が、突然話がある、これはただごとではない。






もうこれは再婚の話しかないのではないか!(義母は離婚している)

見た目が若く、大変フットワークの軽い義母なので、十分あり得る話である。


(相手は?年上?いやまて、30くらい年下を義母は選ぶかもしれない!ということは、わたしとそんなに歳が変わらないかもしれない!どんな男や?どこで知り合ったんや?どんな経緯で??)

そんな妄想が数十秒の間に、わたしの脳内にかけめぐり、唾をごっくんのみこんで、


「え?何の話ですか?まさか、、」と、つぶやいた途端、義母は満面の笑みでこう言った。








「車、変えましてん」







「なににしたと思う??」




よくわからないが、義母の周りにお花畑が咲いてるように見えた。






「え?車?さあ、、アウディですか?乗りたい言うてましたもんね」



義母はにっこり笑って、



「ベンツ」と答えた。




そういわけで長年秘めていた願望を実現した義母は、ぴかぴかのシルバーのベンツを楽しそうに乗り回している。




「いつでも乗ってくれたらいいし」と意気揚々という義母に、「はあ」と軽く答えたまま、月日は流れていた。





つい先日、義母が我が家に来た際に、ふと思いついて「運転してみていいですか?」と告げると、義母は「ああ、いいよ〜」と言いながら、慌てふためいた。


ギアの操作方法、各ボタンの位置などを教えてくれるものの、




「気いつけてな。あんたこれ、ベンツやで」というバイブレーションが如実に出ている。


そんなバイブスをさらっと受け止め、家の周りを一周してみた。





皮のシート、ゆったりとした乗り心地、車内の静かな音、さすがベンツやなと思いながら(我が家の愛車は、大分に年式の古い、(傷へこみ多数)ウィングロードである)、ついでに外出する夫を駅まで送った。





ふと助手席に座っている夫を見ると、黒のスーツ(友人の告別式のため)、モヒカン、グラサン姿である。

ガタイがしっかりしてる上に(元ラガーマン)、人相もいいとは言えない。





スターのSPもしくは、チンピラにしか見えない。





しかも、こういう時に限って、ベンツに乗っている。





いかつ過ぎる風貌とベンツ。どう見たって、本物だろう。





なんでこんな時に限って、ベンツ運転したいなんて言ってしまったんだろうか、と若干後悔した。





いつになくスカした表情の夫を駅まで送り、家路についた。






翌朝、葬式にスーツじゃないラフなスタイルで来る人ってありえんなーという、随分まともなことを夫がぼやいていたので、一瞬目を見張った。







スーツにモヒカンにグラサン姿は、十分まともではない。














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# by mosottto | 2018-06-05 11:24 | エッセイ | Comments(2)



近所の至る所で出没する、自転車じいさんがいる。


じいさんといっても身長が180センチ近くあり、がたいがしっかりしているので、一見遠くから見るとじいさんに見えない。


しかし、近くで見ると、スキンヘッドでその顔の年輪を見ると、明らかにじいさんなのだ。





そのじいさんは自転車のサドルをマックスに上げ(足が長いので)、ゆったりといつも自転車をこいでいる。


たまに自転車をひきながら歩いていることもある。



自転車のカゴはなく、いつもTシャツに短パンという軽装で、ナイキのキャップをぶら下げ、筋肉がしっかりとついている細く長い足でゆったりと歩いている。



どう見ても、買い物の帰りにぶらっと自転車に乗ってるおっさんではない。




自転車への熱い情熱を感じる。




そして自由にぷらぷらと散策をするのを生きがいに感じている風にも見える。




6年前にそのじいさんを見てから、わたしは勝手に親近感を沸かせてもらっている。



話しかけたことはまだないが、(いつもじいさんは軽快に自転車をこいでいるか、自転車をひいてるときも、遠くの目的地を見つめるかのような視線なのだ)そのじいさんを見かけるたびに、どこかほっとするのである。





小学生の頃、わたしは自転車で町中をぶらつくのが好きであった。


目的はないが、とにかくいろんな方面へ自転車を走らせ、無駄に坂を上っては下りるときの爽快感を味わっていた。


友人とつるむのでなく(友人はほとんどいなかったのだが)、ひとりで自由に動き回るのが好きであった。



すこし浮浪人体質の小学生だった。



珍しく友人たちと自転車で帰るときも、急に「今月号のなかよしが今日発売日だった!」と思い出し、友人たちに何も告げずに、しゃーっと走り去り、周囲を困惑させるような、大変協調性のない小学生だった(あとで心配した友人が追いかけてきてくれて、「大丈夫?なにかあったの?突然行っちゃうからびっくりした!」と声をかけられた)






そんなわたしだから、妙にこのじいさんには他人とは思えない何かを感じずにはいられない。



じいさんは、いつもひとりだ。


正確には自転車が相棒。



立ち止まって、じいさん仲間と立ち話をすることはない。


なにか、遠いどこかを追いかけて、町中を走っている。



じいさんに焦りはない。


常にゆったりと自転車をこぎ、


完全に自然と調和している。




過去にお世話になったあるおじさんも、ポタリングが趣味で、ゆったり自転車をこいで街を散策しているような人だった。



自転車屋をやっているのに、自分の自転車に鍵をつけず、何回も盗難にあっていた。



何度も自転車を盗まれても、鍵をつけないその姿勢に、感動すら覚えた。




そのじいさんと、世話になったおじさんの空気感がとても似てる。



共通するのは、自由に街を自転車で回ることが好きなのと、ちょっとした浮浪人的なところだろうか。






じいさんはただ自転車をこいでいるだけだが、その存在が、わたしをほっとさせてくれるのである。









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# by mosottto | 2018-05-25 15:24 | エッセイ | Comments(2)



メキシコからの友人オスカルが一週間ほど、我が家に泊まっていた。


大柄で見るからにメキシカンな見た目だが、彼の行動を観察していると、まったくメキシコ人には思えず、むしろ日本人的なのだ。


「洗濯してほしい」と渡された洗濯物は、きちっと丁寧にたたまれていて(すでに洗濯されたものではと思うくらいに、きちっとたたまれている)、「10時に家を出るよ」と言えば、5分前には玄関で丁寧に靴ひもを結んでいる。

皿洗いも率先してやってくれ、毎朝布団はきれいにたたんである。




そう、とても、きちっとした人なのだ。





出かける時間にわたしと子供とオスカルが、棒立ちで玄関で待っている中、夫が中々出て来ない。


やっと出てきたと思えば、グラサンをかけ、平然と姿を現わす。




もう夫が日本人ではないのかもしれないと、思えてきた。









コミュニケーションは夫とオスカルはスペイン語である。


わたしはスペイン語は話せないので、片言のデタラメ英語なのだが、オスカルも英語はどうやら片言で、わたしたちが会話する時は雲をつかむようなスカスカとした会話となる。





なんとなくの会話はできるが、芯のある会話はできない。


だからわたしも彼も最後は頭を抱えてしまい、唯一意思疎通のできる夫に懇願の目を向ける。


面倒くさそうに夫は通訳するというわけだ。




夫の母(つまり姑)はまったく英語は話せない。しかし、オスカルに何か伝えたい、といったときに、たまたまわたしが横にいたので、通訳することがあったのだが、これはカオスだった。


片言同士の会話なので、長嶋茂雄ばりのジェスチャーと擬音が飛び交うのである。


結果的に三人とも笑っている。


そう、笑うしかないのだ。






日本に来て、寿司や蕎麦、焼き鳥などいろんな日本食を食べ、ひじきや味噌汁など、和食などを我が家で食したオスカルだが、食べた瞬間に、



「リコ!!!(おいしい!)」と絶叫にも近い反応を示したのが、日清から出ているラ王の’サンラータン味’だった。



酸っぱくて辛いものが、どうやらメキシコ人は好きらしい。


感情をむき出しにすることがない彼が、「これをメキシコに持って帰りたい!!」と言うくらい反応したのだから、余程のことなのだろうと思い、西友にあるだけのラ王’サンラータン味’を買い占めて、「さあ、これをメキシコに持って帰ってちょうだい!」と渡すと、爆笑して感激していた。



「このためだけのスーツケースを買うよ」と笑っていた。






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# by mosottto | 2018-05-21 12:01 | エッセイ | Comments(2)


モヒカンスタイルが定番になった夫。


日々、我が家の狭い洗面所で、モヒカン調整を自分で行っているようだ。


じゃーという、バリカンの音が静かに聴こえてくる。


ああ、やってるな、と思うくらいで、その日課には関わらないように努めているのだが、先日洗面所から夫の声がした。




「ちょっと!!見てくれないか」



面倒くさいと思いながら洗面所に行くと、真顔で夫が言った。





「後頭部どうなってる?黒豆みたいなのない?この黒豆みたいなのが、気になるんやけど」





黒豆を連呼する夫に若干引きながら、後頭部を確認してみると、



丁度つむじの辺りが、ぽつんと浮いている。


黒豆と言われればそう見えるが、ただのつむじだと思えば、そう思うし、要は、どちらでもいいといった感じである。






「黒豆には見えへんよ」




と夫に伝えると、一気に安堵の表情を見せた。




「よかった」


と言いながら、引き続きモヒカン調整に黙々と入った。





メキシコの床屋で、後頭部をじゃがいも頭にされてから、後頭部に対して敏感になりすぎてるように思うが、はっきり言っておっさんの後頭部をじっと見る者はまれだろう。









黒豆探し

夫の後頭部を

こんなに真剣に見ることはない
(自由律俳句)








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# by mosottto | 2018-04-23 14:09 | エッセイ | Comments(2)


結婚記念日という思い出をみなさんお持ちであろうか。


我が家は一応、二人で食事に行くという行事はしているが、なんだかぱっとしない思い出ばかりである。


二年前は近所の町屋を改装したフレンチレストラン(夜は一日4組しかとらないという、強気っぷり)で食事をして、調子に乗ってシャンパンにワインにビールに飲んでいたら、わたしは後半つぶれてしまい、きれいな庭を見ながら、無念にも縁側で座布団敷いて、横になるはめになった。

おいしそうにメインディッシュを食す夫を見て腹がたった。
しかも、あまりの気持ちの悪さに、最後のデザートも食べれなかったのである。

横になりながら、夫をにらみつけていたのを、今でも覚えている。



今年の記念日は、京都駅近くの夫おすすめの居酒屋に行ったが、料理も店員(新人の大学生ばかりで、威勢だけがよくうるさい)もぱっとせず、早々に切り上げ、ラーメンでも食べにいくかと、近くの新福菜館に行ったが、まさかの店終いで、隣の第一旭は大行列、泣く泣く退散した。(ラーメン屋で並ぶ気がしない)


結局地元に戻り、駅前の一度も入ったことのないとんこつラーメンの店に入った。


ラーメン屋なのに、活気がなく、店員も若干まったりしている。しかも、結構待たせるではないか。



嫌な予感がしたのだが、出て来たラーメンは予想以上においしく、二人無言で完食した。


店を出てから夫がつぶやいた。



「期待してないわりには、うまかったな。
、、というか、好みの味だ」


と、満足そうに、にやついていた。



「よかったやん」
とだけ、返した。





来年の記念日も、おおむね予想できる。





求めてた

とんこつラーメン

こんなに近場にあるとは

(自由律俳句)






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# by mosottto | 2018-04-10 16:33 | エッセイ | Comments(2)


先日親戚のお葬式があり、夫と義母とわたしとで車で向かった。


その道中、夫が出演したあるラジオ番組の放送日であったことに気付き、家族耳をそば立て、夫のラジオ収録を聞き始めた。


葬儀場についてしまったが、番組は続いていたので、三人で車中で静かに聞く。



お葬式なので、当たり前だが三人喪服である。


喪服姿のいい大人三人が、カーステに耳を近づけながら、じっと聞く姿は、実に滑稽である。(夫に至っては、喪服でグラサン、モヒカンである)






受付の時間ぎりぎりまで聴き終え、葬儀場に向かったのだが、義母は、


「いやーあんた喋りもいけるな。芸人にでもなれるわ」と、意気揚々であった。



確かに夫は頭の回転が早く、納得のいかないことにはとことん議論するし、世界各国どこに行っても現地と同化するぐらいの順応性があり、どんな場所でも物怖じしないので、その点は自信満々の人間であると思っていた。






しかし、である。




昨日、スマホの簡単な心理テストが面白かったので、夫に質問した時のことだ。



重要なのは、テスト結果ではない。



わたしが質問する問いの、夫の回答に驚愕した。





「人に会いたくない時がよくある」に対して、「イエス」


「人から言われたことが気になる」に対して、「イエス」


「心が苦しくなる時がある」に対して、「イエス」


「誰かに振り回されている時がある」に対して、「イエス」




全部、「ノー」と返事するだろうと思った問いに、全部イエスだったことに、思わずのけ反った。









表舞台で表現する人間は、以外と、中身センシティブ。








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# by mosottto | 2018-04-09 11:02 | エッセイ | Comments(6)





20歳前後の頃、わたしは知らない人に声をかけられるタイプの人間だった。


リュックのファスナーが開けっ放しで、「お姉ちゃん、カバンの中身丸見えや!」と声かけられたことは数知れず。

赤信号なのに渡りかけて、「お姉ちゃん!赤や!!」と引き止められたこともあり。


ぼうっとした、だらしのない人間であることは、お分りであろう。









ある時、電車に乗っていたら、隣に座っている男性(20代半ばくらい)がこちらのほうをやたら見ていることに気がついた。


でも気のせいと思い、途中で下車すると、彼も一緒に降りてきて、控えめにこう声をかけてきた。





「あの、すみません。写真、撮らせてもらえませんか?」






手には一眼カメラを持ち、少し緊張している。


勇気を振り絞って声をかけてきたのだろう。











わたしは考える間も無く、




「嫌です」



と、はっきり答えた。




彼は一瞬あわてふためき、


「、、、そうですよね(苦笑)、すみません、、」


と、悲しい背中を見せて去っていった。




わたしは20歳前後、いつも眉間にしわをよせて、いつも何かに怒っているような人間だったので、彼は声をかけた人間が悪かったとしか言えないが、それでもその不愛想な返事には、今のわたしならその過去に戻って「どの面下げてだよ!」と自分をはっ倒したい気分ではある。




しばらくして、自分も写真を街中で撮るようになった時、いつも撮りたい被写体はおっちゃんやおばちゃんであった。

世間話をしながら、ぱっと撮ってしまうので、緊張感はまるでない。



昔のわたしのような、ツンツンした女子を撮りたいとも思わないし、声をかけるにも相当勇気がいる。


そう思うと、声をかけてきた彼は、相当な緊張感だったんじゃないだろうか。一か八かである。


そして20くらいの小娘に、睨みつけられながら、「嫌です」なんて言われてしまう始末。


立ち飲み屋でビールをあおるしかないだろう。










そして時を経て、子を産んでからは、「そのターバンすてきね、よく似合ってるわ〜」とおばちゃんに声をかけられるか、道を聞かれるかの、どちらかである。












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# by mosottto | 2018-04-05 15:18 | エッセイ | Comments(6)


スマホにして三ヶ月が経った。


友人から、やたらラインへの参加の催促が続き、渋々ラインをダウンロードすることにした。



今まで友人とのメッセージは、メールもしくはメッセンジャーを利用していたのだが、ラインを追加すると一斉に友人たちが、ラインで連絡してほしいと言い出した。






ある日、ラインの音が鳴った。


友人三人でのグループトークで、待ち合わせ場所をどこにするか?という内容のものである。


友人ふたりが会話し出したので、わたしもそれに入ろうと、人差し指でゆっくり文字を打ち始めたら、どんどん友人たちだけで会話が進行して、入る間もなく、待ち合わせ場所が決定してしまっていた。


その間、わずか一分ほどの出来事である。



まったく会話に入りきれなかったわたしは、スタンプをえいっと押すので、精一杯であった。





なぜ、みんなスマホなのに、そんなに文字打ちが早いのだ?


pcならタイピングできるが、スマホとなると、指の運びでものすごい時間がかかってしまう。
らくらくフォンを使っている高齢者と同じレベルか、もしくはそれ以下かもしれない。


大縄跳びで入りきれず半泣きの小学生と、同じ感覚に陥った。


やけになり、初めてスタンプを買ってしまう。









春間近
ラインの会話に入りきれず
空見上げる
(自由律俳句)






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# by mosottto | 2018-03-23 16:39 | エッセイ | Comments(8)

刈り上げ夫婦。


ずっと髪を切りたかったので、美容師院に行ってきた。


担当のスタイリストは男性で、少しクセのある、そしてどこか猫の気配を感じる人だ(夫もそうだが、わたしはついつい猫っぽい人を引き寄せてしまう傾向がある)


いろいろ相談しつつ、彼はこう言った。



「少し刈り上げてもいい?」



わたしの毛量が多い為、調節したいということらしいのだが、刈り上げといえば、夫と一緒である。


夫婦揃って刈り上げってどうなのだろうか、と二、三秒迷ったが、


「いいですよ」と返事していた。



出来上がったスタイルは、ショートカットのサイドがソフトに(女性ということを配慮してくれたらしい)刈り上げられた、今までわたしがしたことのかったスタイルに仕上がった。


スタイリストは大変満足そうである。

「もっと短くして、金髪なんてのもあり!」と、かなりエッジの効いた方向に、わたしを誘いだした。


「気が向いたら、そうしてみます」と、返事しておいた。




身も心も軽くなり、店を出た。


挙動不審な若い男女が、眉間にしわを寄せてスマホとにらめっこしている。

ポケモンのモンスターが店の前付近で出没するらしい。

春間近。





バリカンを
夫婦で共有する日が
来ることになるとは。
(自由律俳句)









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# by mosottto | 2018-03-17 16:35 | エッセイ | Comments(2)

見てられない。


先日スタバに行った際、目の前で30代前後のサラリーマン(アパレル系だと判断)が、派手に飲み物を床にぶちかましていた。


アフリカ大陸のように広がる飲み物(白っぽかったので、カフェオレと判断)


恥ずかしさからか、サラリーマンはひたすらおろおろして、紙ナプキンでふこうとしている。


見ると、隣の20代のサラリーマンにまで、被害がおよんでいる。

そして彼は(社会人三年目くらいと判断)、怪訝な顔して、棒立ちである。




紙ナプキン、何枚いるねん。




わたしはスタバの店員に、


「お姉ちゃん、あそこで飲み物こぼしてはる、雑巾もっていってあげて」と、おばはん丸出しの対応をすると、すかさず店員は飛んで行った。


アパレルサラリーマンは、顔真っ赤っかで、被害を被った方は、やはり怪訝な顔をして脳立ちだ。



その数分後には、二人とも涼しい顔で何事もなかったかのように、スマホやパソコンに向かっていた。





昨日、5歳の息子が大量に床にスープをぶちまけ、やはり「あちゃー」という顔をして、棒立ちで、スープのしみを見つめていた。




お前もか。




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# by mosottto | 2018-03-15 16:22 | エッセイ | Comments(0)

エネルギーの使い道。


少し前から「この時間を削りたい」と思う時間があった。


朝の服選びである。





毎朝眠たい目をこすりながら、意識も朦朧とした中で、服を選ぶという行為が邪魔臭かったのである。


次第に朝のその時間が億劫になりつつあり、わたしはこの時間をどうにかしたかった。







それで思いついたのが、前日の晩に服を選んで枕元に置いておく方法。



目覚ましが鳴り、メガネと服を持って、下へ降りる。


服を選ぶ時間が省かれるので、朝のストレスが減った。


これはいい方法である!


小学生が親に言われてよくやる方法なのだが、なぜ、今まで気がつかなかったのであろう。


朝のちんたら服を選んでる時間が5分だとすれば、×365日、×三十数年間、、


とんでもないエネルギーを費やしていたのかと思うと、頭がくらくらする。



いっそ、のび太やジャイアンのように、同じ服を着て、さらに選ぶ時間さえもショートカットしたい気分になってくる。





一つのことが快適になると、他のことも気になってきた。



ドライヤーで髪を乾かす時間である。



毛量が多いため、異様に時間がかかるのだ。


ふと風呂上りの夫を観察すると、髪は数回タオルドライして終了ではないか。(モヒカン刈り上げスタイルだからだ)




うらやましい。とてもうらやましい、、!



「わたしも刈りあげたいなー」と、夫にもらすと、


「それだけはやめてくれ」と焦って反対された。




そうやっていろんなエネルギーを違う方向に使えているのかというと、このブログを書いているくらいのことで、人生に差し障りのないような気もしてきた。







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# by mosottto | 2018-03-09 09:52 | エッセイ | Comments(0)


アナザーストーリーという検証番組をご存知だろうか?

毎回テーマごとに、様々な視点からの証言をもとに、事件や人物を紐解いていく番組だ。



その、アナザーストーリー的な視点で、わたしが経験した交通事故について書いてみたい。



①交通事故の被害者の視点

30年以上前、つまり7〜8歳頃、わたしは道路を横断する途中、車に跳ねられた。

軽く数メートルは宙を舞い、(よくある話だが、ほんとうにその数秒スローモーションになって見えた)そのまま道路に倒れこんだ。

軽自動車からひとりのおばはんがすごい形相で出てきて、まだ幼いわたしにこう言い放ったのだ。



「わっ、わたしは悪くないからね!!飛び出してきたあんたが悪いんだからっ!」

明らかに動揺している。


焦りまくるおばはんをぼんやり見つめながら、ゆっくりと起き上がると、なんと無傷であった。


近くにあったパン屋のおばちゃんが、お店から出てきて、こっちを見つめている。

さらに焦りまくるおばはん。

「わたしは悪くないから!わたしは悪くない!!」

パン屋のおばちゃんに対してのアピールなのだろうか。


確かにおばはんの言うことは嘘でもなく、わたしは車がきていたこともちらっと確認しつつ、「渡れる」と思って横断したのだが、車のスピードの方が早かったのである。


しかし、人身事故の場合、車の方が加害者になるので、おばはんは動揺しまくっていたのである。

狂気ともいえるほどのおばはんのヒステリーに恐怖を感じ、わたしはそのまま家に帰ってしまった。

随分後になってからその一件のことを親に話すと、

「ばか!なんでその時言わないんだ!」と、えらく怒られた。後遺症があとから出てきた場合のこともあるのかもしれないが、とにかくあの狂気なおばはんのことは一刻も早く忘れたかったのだ。





②交通事故 目撃者の視点

つい最近息子を送りに行く朝、道路の目の前で、軽自動車とバイクの正面衝突を目撃してしまった。
曲がり角での衝突だった。

倒れたバイクの女性は外傷はなさそうだが、うずくまっている。

「大丈夫ですか?」と、その女性に駆け寄ると、接触した車から子連れの女性(ちょいおばはん)が出てきて、



「わたしは悪くないねん!この人が当たってきはってん!」と、若干テンパりながら主張し始めた。
(どこかで聞いたセリフだ)



バイクの倒れた女性を気遣うでもなく、「あー面倒臭いことになってしもた」感をガンガンに出している。

近所の人も出てきて、救急車を呼んだ。

そのあと、警察なども来て、一応目撃者のわたしも事情聴取を受けた。

去り際、バイクの倒れた女性は声を振り絞るようにして、

「、、ありがとうございました」と言って動きにくい手を振ってくれたのだが、手なんか降ってる場合じゃないよ、あんたの無事を願うよ、と後にした。






③交通事故の加害者

5年ほど前、夫を駅まで送った帰り、接触事故を起こしてしまった。

左右の確認ミスと、ペーパードライバーから運転するようになって日がまだ浅いこともあって、気が動転してしまい、コツンとあててしまった。

中からおじさんが出てきて、やれやれ、という顔をしている。わたしもおじさんも怪我はない。


とりあえず警察を呼び、現場検証や事情聴取などをして、車の保険のことなどについて話し合い、最後おじさんに謝ると、「まあ、気をつけてね」とだけわたしに言い残し、後にした。


当てたのがややこしい人でなくてよかった!とほっとした。




番外編 交通事故 加害者の家族


20年以上前、父親が人身事故を起こしてしまった。

バックする際、後方確認ミスで、歩いていた人(中年サラリーマン)の足を巻き込んでしまったのだ。

幸い捻挫程度で済んだものの、怪我の治療などは保険から下りるので、あとは当人同士のやりとりはなくなるのだが、その中年サラリーマンは納得いかなかったようで、こちらが何度も謝ってるのにもかかわらず、執拗に脅迫電話をかけるようになった。

その時は静かなサラリーマンだったのに、電話口ではその筋の人ばりに脅してくるのである。

まさにややこしいタイプの人だ。


気弱な父親はすっかりその電話に参ってしまい、「わたしとお母さんがついてるから大丈夫や!」と父をなぐさめた。



その年末に大きな松葉ガニ二匹を送ると、そのややこしい電話はぴたっとなくなったのである。



かにが好きだったんだ。。







あらゆる視点で交通事故を経験したが、やはり、加害者被害者とも、どんな人に当たってしまうかは、もはや運である。






  















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# by mosottto | 2018-03-07 15:07 | エッセイ | Comments(2)

(またデニーロネタで少々しつこいかもしれないが、もう少しお付き合い願いたい。)



ツタヤで借りてきた’タクシードライバー’を見終わった夫に、

「どうだった?」と聞くと、


「いや、あれは、、あの終わり方はどうも納得いかない。’バードマン’(メキシコ人監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの映画)と似すぎている!」と、興奮気味の夫。


夫の推測では、バードマンもタクシードライバーも、結末が死後、主人公の空想の世界を描いたものである、ということらしい。


「絶対にバードマンの監督は、タクシードライバーを意識してる!そうだとしか思えない!」

その日から、夫は帰宅するたびに、

「タクシードライバー観た?」と聞いてくるようになった。




わたしの見解をどうやら熱望しているようだ。


正直タクシードライバーやデニーロ、マーティンスコセッシに思い入れも何もないわたしにとって、どうでもいいことだったのだが、あまりに執拗に聞いてくるので、ツタヤ返却日の前日、子供を寝かしつけて、眠たい目をこすりながら、一人タクシードライバーの鑑賞をした。



鑑賞後、ちょっとめんどくさい仕事が終わった、、と思っていたら、飲み会終わりの夫が帰宅した。


そそくさと二階に上がろうとしたら、夫は例の結末のシーンについて、議論してきた。酒が入ってるので、余計に白熱して、正直とても面倒臭い気分になった。


「このシーンを観てくれ」と、コマ送りでシーンについて説明し出す夫。

「ちょっと待って。一回通して観させてよ。じゃないと、流れがわからない!」と言うも、執拗にコマ送りで解説し出す夫。

だんだんイラつくわたし。


「この設定で、このセリフ、そして最後のこの映像!おかしいやろ!」


興奮する夫に、


「ちょっと待って。このシーンというよりも、実は全編通して、主人公の妄想であったという考えは?」と切り出すと、


夫は、はっとした顔をして、

「、、それは有り得るな。この主人公はベトナム戦争の帰還兵で精神が病んでる設定や。スコセッシはそういう彼らの悲痛な叫びと妄想を映像にしたかったのかもしれん」


しかしまた後で、「やっぱりこの最後のこのシーンが納得いかん。観て、これ。人が透けてるやん!」と、心霊現象的なシーンにえらい引っかかっていた。



眠気と夫の酒臭さと、白熱する議論に頭がくらくらとなり、


「もう創作の意図は監督のスコセッシにしかわからんやろ、スコセッシに聞いてくれ!」と、わたしは話を終わらせた。







ちなみに飲み会帰りの夫の格好は、やはり、軽いモヒカン、サングラス、モッズコートであった。












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# by mosottto | 2018-03-05 14:19 | エッセイ | Comments(2)


年末にBSプレミアで放送されていた黒澤映画3本(赤ひげ、羅生門、七人の侍)、あと別の映画数本などが、まだ観ずにたまっている。

過去に「どですかでん」や「我が青春に悔いなし」「生きる」などの黒澤映画を観たが、どれもこれもどしーんとした黒澤映画熱がすごいので、異常に集中しないと入っていけないし、世の中が起きていない時間帯に観ないと(もしくは映画館)、正直観れる気がしない。

そんなわけで長らく三ヶ月放置状態であったわけだが、たまたまウッディアレンの映画が放送されていたので何気に録画した。


用事のついでに冒頭だけチェックしようと観出したのだが、結果、最後まで観てしまった。


’ブルージャスミン’である。


ケイト・ブランシェット主演で、大富豪の妻がある出来事をきっかけにすべてを失い、落ちぶれて、壊れていく様を描いた映画だ。

内容だけみるとかなり辛気臭いかんじなので、最後まで観れないだろうと思っていた。


しかし、だ。

ウッディアレンの作り出す心地よいテンポ感と、人間臭いキャラクター設定、主人公演じるケイト・ブランシェットの演技力に怒涛のように引き込まれ、(ポテトチップスを食べ始めて止められなくなって、最後まで食べきった衝動に近い)もう最後は降参状態だった。


こんなに人を引き込むことができるケイト・ブランシェットの演技力はちょっと異常だ。
彼女の演技を観るだけでも価値がある。



そういうわけで、確定申告という用事も結局後回しになってしまった。

こんなブログ書いてる暇はないのだが。







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# by mosottto | 2018-03-02 09:56 | 映画のこと | Comments(4)

「買い出し行ってくるけど、ついでになんか買ってくるものある?」

と、何気なく夫に聞くと、一瞬真顔になってから、目をきらっと光らせ、

「TSUTAYAでタクシードライバーを借りてきてくれないか」と、言い放った。


またか!
まだデニーロ熱は冷めてなかったんか、と一瞬ひるんだが、わたしは黙って頷いて家を出た。




「借りてきたで」と、夫に渡すと、神妙な面持ちで、デッキに入れ、モヒカン頭になるデニーロのシーンを早送りする夫。

去年、一度だけタクシードライーバーをチェック済みだったが、デニーロのモヒカン姿はおぼろげだった。

一緒に息をのんで見ていると、予想をはるかに超えた、かなりいかついトリッキーなモヒカン姿のデニーロが映し出され、夫婦で絶句した。

「、、けっこう、キテるね、このモヒカンは」と、つぶやくと、

「ここまではさすがにやれへんな、、」と、夫でさえもひるんでいた。


しかし、静かに確認し終わると、またバリカンでモヒカンの調整をし始めた夫。


30分は洗面所から出てこなかったのである。


その日の夕方から、夫は中学の同窓会があり、かなり気合いが入っている様子だった。
なにせ25年ぶりの再会である。


例のモッズコートを羽織り、グラサンをかけて、ちょっと軽めのデニーロが仕上がった。


よくわからないが、がんばれ、と心の中で念じて、夫を送り出した。





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# by mosottto | 2018-03-01 09:26 | エッセイ | Comments(4)

やってきた文明開化。

最近いろんなブログを訪問したり、更新の頻度が多くなったり、mosotto急に活動的になってんなーと思われてる方もいるかもしれない。



本当にそうである。



なにせこのMACがやってくるまでは、かなり小さな画面の時々故障するパソコンを使っていたので、ブログも見ずらいし、更新するのも、訪問するのも億劫になるというわけで、必要最低限度の活動であった。

本格的に壊れてからは、携帯もガラケーだったので、ネットする手段はなくなり、ほとんど映画を観るか、本ばかり読んでいた去年の暮れ。(実は人生で一番映画を観た年だった)

それが2018年になり、スマホになり、MACがやってきて、急に文明開化されてしまった。

画面も見やすい!
さくさく更新できるし!
必要以上にMACに入り浸る日々になったというわけである。


義母(つまり夫の母)は去年初めてスマホに変え、パソコンも触ったことがないような人だったので、「人生変わったわ!」とネットライフを謳歌している。

20年弱前、初めてお金を貯めて、MACを買った。
当時光回線などなく(あったのかもしれないが)、ADSLでもなく、超遅いネット環境だった。
よくそんな環境でネットしてるねなどと友人に言われながらも、その当時は嬉しかったのである。

それからどんどん環境が整い、常にパソコンはわたしの友達、的な存在であったのに、去年まで持っていたパソコンはポンコツ状態になり、ぷすぷすと音をたてて、ネットから遠のく日々になっていた。

そしてやってきたMACとスマホがある生活は、「まるで今までパソコンすら触ったことなかった人」(つまり義母のような)が急に快適なネットライフを得て、「人生変わったわ!」状態と、まるで同じだった。

今までのわたしが引くくらいに、ネットライフを謳歌している。


そういう訳で、しばらく浮ついた感があるかもしれないが、落ち着くまで温かく見守っていただきたい。





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# by mosottto | 2018-02-28 14:32 | エッセイ | Comments(2)

メキシコの床屋で、後頭部をじゃがいも頭にされて、納得がいかなかった夫。

仕様がなく、嫁のわたしがバリカンで刈ることになった。

5ミリで少しずつ刈ると、少しましになったようで、じゃがいも感からは脱却した模様だったが、最終的には自分自身でバリカンを握ってじゃーじゃー刈りはじめていた。


気がつくと、グラデーション気味のモヒカン頭になっており、

「(映画)タクシードライバーの時のデニーロみたいやろ?」と、満面の笑みを浮かべ、仁王立ちで立っていた夫。

「そうやな」と一言だけ返しておいた。





別の日に、夫が急に「服がほしいな」と言い出し、行きつけのリサイクルショップに行くことになった。

息子のパジャマ50円、わたしのブーツ100円をゲットし意気揚々になって、夫を探しにいくと、姿が一向に見当たらない。

携帯にかけると、小声で夫が出た。

「試着室や。まだ時間かかるから、その辺にいて」

40過ぎたおっさんが、試着で30分も時間をかけるものだろうか?と、ぼんやり考えていると、ふうと息をつき、汗ばんだおっさんが出てきた。

すると女子高生のようにもじもじして、
「あのさ、モッズコートどう思う?あっちに売ってたんやけど」と言い出した。

どうもこうも、自分が気にいったんやったら、ええんと違うんかと、内心思うも、コートを探しにいく夫の足取りは完全に浮かれていることに気づく。

そのモッズコートを嬉しそうに見せ、わたしの目の前で羽織って見せた。


「タクシードライバーのデニーロみたいやろ?」と、少し照れながら言う夫。

またか!

「自分がいいと思ったら、いいんちがうか」と告げると、ぱあっと顔を輝かせ、カゴにモッズコートを入れていた。


数日後、夫が主催するレッスンに同行した際、お世話になっているお店の方や生徒さんたちと話している時だった。

モッズコートを羽織り、グラサンをかけ(室内である)、モヒカン頭の夫は、いつもに比べると口数が少ないことに気づく。
なんだか、アンニュイな空気も醸し出してるなあと思いながらも、放っておいた。


帰宅後、夫は寂しげな表情でつぶやいた。


「誰もタクシードライバーのデニーロやと気づいてくれへんかったな」



うそやろ?
デニーロ演じてたんか?


しょげている夫にわたしはつぶやいた。


「余程の映画通じゃないと、それは気付かれへんやろ」



夫のなりきりデニーロは、もう少し続きそうな気配である。




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# by mosottto | 2018-02-27 09:14 | エッセイ | Comments(0)

魔除けの恐竜。


最近、恐竜の絵を描くことにはまっている息子。

「おとうさんも描いて!」と、親子で恐竜絵対決をしていた。

夕食の後片付けを終えて居間に行き、対決の経過を覗いてみた。


息子の描く恐竜は、色や形がとてもドリーミンで、見ていてとてもかわいらしい。
ほのぼのしながら眺めて、夫の恐竜に目をやると、一瞬のけ反った。

その恐竜は執拗なほどまでの生命力、アクの強さ、エグさに突出していた。

そしてなぜかこれを飾って置いたら、悪いことを跳ね返しそうと思わせる魔除け感。

「、、なんか、すごいね。目がやばい。ぐへへへって吹き出しで入れたいよね」と夫に言うと、

「じゃあ、書いてみて」と言うので、ぐへへへっと書き足すと、

「センスないな。この恐竜が台無しだ」と、ばっさり。

そう?鳥山明の線を狙って書いてみたのだが。

まあ、どっちもどっちじゃないか。


そういうわけで、窓辺に魔除け代わりに飾ることにした。
横に置いてある去年、夫がメキシコ土産で買ってきた水晶玉と妙に合っている。

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# by mosottto | 2018-02-26 12:19 | こども、家族のこと | Comments(2)


西原理恵子特集の雑誌と、植本いち子の新刊エッセイ(私生活を赤裸々に綴った内容)を読んだ。



植本いち子は本人自体に不安定感というか、この人どうなっちゃうんだろう?という危うさがあり、それが読み手にとっては惹きつけられる魅力でもあると思う。(なので読み手も不安定だと、どーんと沈んでしまいそうな危機感はある)
初期の日記を読み、夫が同じ職業で、育児中という共通点でえらく共感をしたのだが、前作を読むと、本人より夫である石田さんに共感し、少し石田さんのファンにもなっていた。

そして今作。

ああ、この人はすねているんだ。
愛してほしい、わかってほしい、わたしは孤独。
本からそのような感情が溢れ出して、小さな女の子が泣いているようだった。

かなりバッシングされ兼ねない内容なのだが、本人にとっては切実で、正直でありたいということなのだろう。(周囲の人、自分の家族に今後いろんな影響が出ることも覚悟で)

彼女に共感するところもあるし、共感できないところもあるし、読み手にとっては様々な感情を感じるだろうが、一つ言えるのは、誰も彼女の人生に口出しできない、ということだ。


西原理恵子は表向き、銭金銭金、稼ぐためならなんでもネタにしまっせと、図太く生きてる女性に見えるが、根本では人間を愛するということにかけては、ものすごい執着を感じる。
波乱万丈でありながらも、それでも人間を愛するということを常に選択している人だと思う。



倉本聰のインタビューで、最近の人は、発信ばかりに気を取られているが、創作に必要なのは受信力だと語っていたのを思い出した。

受信力とは、人を愛することだという。

それが創作における一番たいせつなこと。



そうか、愛すること。
哲学がはっきりある人の作品は、何度も見たくなるし、読みたくなるのだな。

読後の感想。








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# by mosottto | 2018-02-24 12:48 | 読書の時間 | Comments(0)



快晴某日、美術館へ無性に行きたくなり、岡崎にある京都国立近代美術館へ朝一向かった。
(このブログには珍しい写真多めの内容です)



ルートはいつも決まっている。
朝の先斗町。
観光客もおらず、さくさくと歩けるのだ


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先斗町歌舞練場の壁が好きで、通るたびにうっとり見つめてしまう。
この壁バックに人物のポートレートを撮ったら面白そうなどと、妄想にふける。
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朝の三条大橋。
こんなに寒い2月の京都なのに、お決まりのように土手にはカップルが座っている。
うそだろう、と思いながら通り過ぎる。
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独身時代に友人と何度か行った飲み屋を通り過ぎる。
酒好きの人はご存知だろうか?酒場ライターの吉田類が酒場放浪記で訪れた場所でもある。
(この店の他に、河原町三条上がって一筋目を東に入ったところにある、’よしみ’もいい店である。)

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おしゃれな場所より、こういう少し影がある細い路地に吸い寄せられてしまうのは、もうこれは仕方がない。
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国立美術館前は平安神宮の大鳥居があり、わたしはおそらくここが京都で一二を争うくらい、好きな場所である。
頻繁には行かないが、なぜか快晴の日には行きたくなる場所なのだ。
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観光客のふりをして、鳥居の下を撮影する。
crushというシールが貼られていた。アウトだろう、これは。
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会場に到着すると、すでに人が並んでおり、え?ゴッホ、そんな人気なの?と一瞬驚いた。


今回の展示はゴッホの愛する日本のテーマのようで、ゴッホの作品の他、北斎や広重の作品も展示されていて、北斎の作品を生で見たことがなかったわたしは、とても興奮した。

ゴッホの浮世絵風の作品や、日本美術に影響を受けた西洋作品を眺めていると、余計に、北斎などの作品が洗練されて見えて、ゴッホ展というよりも、日本美術の再認識というかんじだった。

もちろんゴッホの作品で好きなものも数展あったのだが。(麦畑が一番気に入り、一巡してから、またこの絵をずっと眺めていた。というか、この絵の前にしかほとんどいなかった)

会場を出ると、チケット売り場には吐き気がするくらいの長蛇の列ができていた。
朝早く行動していて良かった!と、ほっと胸をなでおろした瞬間だった。


そのあと、岡崎方面に行くと立ち寄る知り合いの店があり、いつ行っても閉まっていたので、長らく店主と会えたためしがなかったのだが、この日は「なんか今日は開いてそう」という気がして、ふらっと立ち寄ると、ひっそりと開店していた。
6年ぶりの再会だろうか?

しかも、「ちょうどええとこに来たわ!阿闍梨餅持って帰って!」と、京都名物までおみやげでもらった。
知り合いにおみやげで持っていこうと買っておいたそうだが、キャンセルになり渡せなかったので、今日誰か友達が来たら渡そうと思ってたところに、わたしがふらっと現れたというわけだ。
わたしのセンサーはお店の開店よりもむしろ、阿闍梨餅センサーに引っかかったのかもしれない。

結局一時間半ほど長居し、お互いの近況や、あの人は今景気良さそうや、などと、やはり下世話な話で盛り上がった。


コートのポケットに阿闍梨餅を詰め込み、帰路に着いた。
なんてことないがいい一日であった。





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# by mosottto | 2018-02-23 11:27 | カメラ | Comments(4)

縁が繋げてくれる。


2月某日、多忙な友人二人を誘い、共通の知り合いkさんのお墓参りに行った。

お墓にはkさんが長年吸っていたキャスターをお供えし、線香とタバコの煙がお墓に広がった。
快晴であった。

家族を持ついい年をした女三人が墓場に集まれば、親の墓や自分の墓問題で話題が持ちきりにならない筈がない。
永大供養というキーワードがやたら飛び交った。
そしてやたら声がでかくなる。
お墓まいりに来て、こんな下世話な話して、ま、kさんも笑ってくれてるよねーと笑い飛ばし、お墓を後にした。


今出川近くのカフェで昼ごはんをして、やはり下世話な話で盛り上がる。
いいかんじのおしゃれなカフェが、雰囲気台無しの感もあるが、それはもう仕方がないことである。

一人は会社経営者で、彼女の話を聞いてると、雇われてばかりの人生だったわたしは、雇う側の視点になって物を考えたことがなかったことに気づく。
一から会社を起こして、人を雇い、十数年続けられるって、すごいことだ。
人に恵まれ、人に揉まれ、人間力の塊のような彼女であるからできることなんだろう。

もう一人はフリーで働いてる方だが、締め切りで追われ、とても大変そうだが、仕事を取りに行くことは少なく、ほとんどが縁で繋がって、仕事が舞い込んでくるのだそうだ。
彼女も才能ももちろんだが、人を惹きつけるものを持っているからこそ、たくさんのご縁があり求められているんだろう。

そんな多忙な二人を、ぼんやり暮らしている主婦のわたしが急に呼びつけちゃって、ほんとすみませんというかんじなのだが、kさんという人を通じて知り合った間柄なので、やはり縁というものに感謝せずにはいられない。


おしゃれなカフェでの下世話な話は一層盛り上がり、次は最近引っ越しした友人宅で、引っ越し祝いだ!酒持ってくよ!と、酒の話題でえらく盛り上がった。


帰りの地下鉄の車内で、真向かいに座っている若いサラリーマンが目に付いた。
ノートパソコンとにらめっこし、いかにも仕事してまっせ感を漂わせている彼だが、横に無造作に置かれたコートはだらしなく、足元に置かれたカバンはパンパンで、しかも半分開いていて、そこからビッグサイズのポン菓子が顔を覗かせていた。
一見仕事できなさそうに見えるが(決め付けてしまって申し訳ない)、そういうどこか抜けてるところが、かわいいなあと、ぼんやり眺めた。













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# by mosottto | 2018-02-22 10:34 | エッセイ | Comments(0)