カテゴリ:エッセイ( 57 )

マイノリティ体質


わたしのパソコンは機能停止、もうほぼアホになっている。

こうやって文字が打て、更新できるのは夫のMacを借りているからだ。

しかし、文字の大きさ、前と一緒にしたいのに、微妙に違うのはなぜ?
ブログ内で文字の大きさが行ったり来たりしてると、情緒不安定感が漂よう。
WindowsとMac、やっぱり違う。

ずっとWindowsを使ってきたが、20年前に初めて買ったパソコンはMacだった。
周囲に「なんでMacなんかにするの?」と言われながら(あの当時は周りでMacを持ってるのはデザイン関係を勉強もしくは仕事にしている人が多かったように思う)Windowsユーザーから「は?Mac?」と、けなされた。

うるさい、外見重視や。
そう思って遊び心のあるMacをえらく可愛がり、iPodが発売されると、アップルストアに駆け込み、うっとりとしながら手にした。

5年ほど経ち、Macを欲しがってる知人に譲ると、なんとなく次はWindowsのパソコンを買った。どれくらい違うものだろうか?
使ってみると、驚いた。

ユーモアがあり退屈しないおしゃれな男の子と別れ、真面目で誠実だが面白味にかける退屈な男の子と付き合い始めた、という感じか。

無味無臭のこのかんじ!
だが、何が何でもMacがいいとは思えなかった。もう、おしゃれな男はいいんだ。


そしてiPhoneが発売されると、爆発的にMacユーザーが増えていった。
そうなるとわたしの中のマイノリティ信仰が爆発し、何が何でもアップルは選ばないとプログラミングされた。

7、8年前に、初めてスマホにした。
機種はブラックベリーという、iPhoneが爆発的に普及する中、とことんマイノリティなスマホを選んだ。

もう、おしゃれな男はいいんだと言いつつ、ルックス重視だったのだ。(好みは中々変わらないのである)
そしてわたしの憧れの存在であった、抜群に知的でおしゃれな友人がこのブラックベリーを使っていた。
もうこれしかない。
早速携帯ショップに行くと、「これは世界のエグゼクティブや、あのオバマ大統領も使ってる携帯なんですよ!」と店員に鼻息荒く説明され、一気に買う気が失せてしまった。

一旦保留にし、結婚前の今の夫に相談すると、「俺やったら、ブラックベリーや!」と背中を押され、決めたのだ。
もうなんの迷いもなく「ブラックベリーをください!」と店員に言い放つと、「なぜそれを?」という顔をされたが、先の世界のエグゼクティブや〜の説明をされなかったので、ホッとした。

10年ぶりに抜群におしゃれな恋人を得たような気分だった。
電車に乗っても誰もブラックベリーを持つ人はいなかったことも、気分を高揚させた。
同じブラックベリーを持っている人に出会ったのは、先のおしゃれな友人とその旦那さんと、もう一人しかいなかった。

その人とは何かのワークショップに参加した時に出会った。
おもむろにブラックベリーをポケットから取り出して、びっくりした。ブラックベリー!慌ててわたしもマイブラックベリーを取り出すと、その人も「オーー!」と大変興奮していた。
アマゾンの奥地で偶然日本人に出会った、という感覚に近い。
ブラックベリーを持っているということだけで、意気投合してしまうのだ。
そのくらい日本においてブラックベリーユーザー同士が出会うと、妙な一体感が生まれるのだということを体験した。

しかししばらく愛用していたものの、不具合の多さと、スマホの機能をあまり使わない(まだLINEやインスタが登場する前だったのだ)ので、あっさりガラケーに戻した。

おしゃれな男はもういいんだ、機能性重視や!

だがスマホが主流の今、ガラケー自体がマイノリティになっているので、思想なんたらとは関係なく、わたしはとことんマイノリティ体質なのかもしれない。





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by mosottto | 2017-12-01 15:58 | エッセイ | Comments(8)

ずっこけ神戸ものがたり


某日、5歳の誕生日を迎えた息子が行きたがっていた、神戸にある某子どもだいすきミュージアムに行くことになった。

午前中は自治会の地域の防災ツアーに参加し、避難場所になっている小学校で避難食のパンをお土産にもらって帰ってきた。
あまりの寒さでチキンラーメンを食べるも、夫は「寒さでやられた。横になる」と、こたつの中で顔だけ出して寝込んだ。

仕様がないので、わたしと息子だけ先に神戸に向かうことになった。
電車の中で息子はもうそわそわしている。

子どもだいすきミュージアムに着くと、もうそこは子供達と保護者で溢れかえっており、それを見ただけでめまいがした。
深呼吸をして息子に引っ張られながら、施設の中に入る。

当然ながら、自分の子どもしか見ていない親たちがスマホ片手に撮影に忙しい。

気づくと息子は興奮してか、野生の動物のような動きをしている。

お土産コーナーにいくと、さらにめまいがした。どれもこれも破壊的な値段!
消費社会と消費者の縮図を見たような気がした。


一時間遅れで到着した夫は、もうすでにくたびれた顔をして現れた。
「中に入らないし、楽しんできて」と言い残し、ハーバーランドに消えていった。
あとでどこに行っていたのかと聞くと、「コーナン(ホームセンター)」との答え。
ハーバーランドまで来て、コーナン。
「俺にはハーバーランドに居場所がないことは一瞬でわかった。コーナン、ごっつ落ち着いたわ」と語っていた。


野生化した息子をなんとか外に連れ出し、夫と合流し、観覧車に乗る。
家族でただひたすら海を見つめた。


早々にハーバーランドを後にし、元町へ向かう。
普段外食を嫌う夫が珍しく「行ってみたい店がある」と言うからだ。

薬膳カレーと、薬膳餃子の店らしい。
店内に入ると、夫と同じ空気が漂い、どこかホッとする。
繁華街を歩いてる夫は、野良猫のような険しい顔つきだったが、急にくつろいでる表情に変わったので、夫も同じように感じていることがすぐにわかった。

家族客はうちだけで、独身男性一人のお客が多く、マイナー感がどこか漂う店内である。

薬膳カレーを食べた瞬間、夫の目がハートになり、独身OLの贅沢ランチばりにはしゃぎ始めた。
とても味が好みらしい。
確かに美味しいが辛さに弱いわたしは、むせ返った。
薬膳餃子も美味しく、夫を見ると、明らかに浮ついている。

「餃子もう一人前頼む?ビールも頼んじゃおうかなあ」と、普段の夫からは想像できない舞い上がり方をし出した。

「いいんじゃない。頼めば」と言うと、夫は嬉しそうにマスターに注文した。

0パーセントだったテンションが一気に100%を越えたのだろう。

美味しいものを食べて、ビールを飲み、かなり上機嫌になり店を後にした。

帰り道で、「たこ焼き食べよう!閉めに豚まんも食べたいな!」と、どんどん盛り上がり出す夫。
息子も好きなので、きゃっきゃと喜んでいる。

その日のメインは子どもだいすきミュージアムだったが、さらっと薬膳カレーにすり替えられ、帰宅した際には「今日は何しに出かけたんだっけ?」と思うほどだった。


「来年は恐竜博物館ね!!」と、高らかに宣言する息子の声が部屋に響きわたるのを聞きながら、わたしはこたつの中に入ってだらけた。







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by mosottto | 2017-11-24 14:28 | エッセイ | Comments(4)

プロフェッショナル


単調で黙々とするような作業が昔から苦手である。

学生時代に初めてしたバイトが、富士フィルムの現像屋さんで、友達に誘われて応募したのだが、その友達や若い学生たちのほとんが、写ルンですのようなスナップ写真の現像部門に配属された。

そしてなぜかわたしだけが、大学病院の解剖写真(もちろん死体である)やセミプロのカメラマンが撮ったようなフィルムの現像部門に配属されてしまった。

スナップチームは若い子たちで和気あいあいと楽しく仕事をしていて、わたしの配属先は、この道ウン十年というベテランのおっさんと、会社終わりにバイトで来ていたサラリーマンのおっさんと、19歳(当時)のわたしだけであった。

喋ることも何もないので、出来上がったネガを仕分けする作業を黙々とこなし、たまにヌード写真や死体解剖写真のネガを見ては、ぎゃっと叫んでいた。

あまりに単調過ぎたのと、おっさん二人の空間に拘束されることに嫌気がさして、半年ほどで辞めてしまった。

それ以降、自分には黙々とする作業はむいてないと思い、あえてそれを避けてきたつもりだ。


この秋に開催される保護者会の行事で参加者に配る、工作キットが先日我が家に届いた。
手作りキーホルダーの各材料(ふわふわビーズや飾り、キーホルダーのチェーンなどやたら細かいパーツが多い)を100個分仕分けせねばならなかった。
次の会議で委員全員で分担するのが一番良い方法だが、材料自体がとても細かく、テグスを切ったり、すごく手間暇かかる仕分けで、その他の事前準備も沢山あり時間的に厳しいため、これだけはうちでやっておこうと決断した。

最初から、夫や母などを巻き込んで手伝ってもらう予定なのだったが、急に、
「こんな内職、人生で一度もしたことがない。全部自分でやってみたらどんなかんじなのだろうか?」と、思い立ってしまった。

やり始めて、5分、すでに後悔していた。
細かい作業も苦手だし、段取りもよくわかってないため、時間も手間もかかる。ただ分けて、切ったり、詰め込む作業なだけなのに!

はあ、なんでこんなことしてるんだろう、やっと20個終わった、ああ、あと80セットもある!今からでも母に電話しようかな、、と、気分も萎えていた。

40個終わったあたりくらいだろうか、効率よくできるやり方を考えながらやってみると、どんどん進んでいった。

それと同時に、こういう仕分けの仕事をしてる人への尊敬の念が強烈に沸き起こってきた。

普段何気なく買ってる商品も、機械化されてるとはいえ、手作業のこともあるだろう。
検品などもそうだろう。
どんな仕事も誰かの手を通して、わたしの元へやってきているのか!そんなことを思うと、胸が熱くなるのだ。

俄然、わたしの手は早まり、憑りつかれたように夢中で仕分けしていた。
脳内には、「プロフェッショナル仕事の流儀」のテーマソング(スガシカオ)が流れだした。
気分はもう、内職のプロフェッショナルである。

100個仕分けが完成した時は、地味に一人で「イエス!」と、ガッツポーズをとった。
なんともいえない達成感、と同時に「一体わたしはなぜこんなに夢中になっていたのだろうか、、」という思いに包まれた。

その晩、夫に「いやあ、この内職をしていて、いろんな気づきがあって感動した。どんな仕事でも自分の意識次第で変わるんや!」と熱く前のめりで語っていると、
「うん、まさに人生でそういう思いになって、これを一生の仕事にしようと決めたのが、今の仕事なんや」と、わたしに輪をかけるくらい熱く仕事論を語りだしたので、一気に熱い思いも引いてしまった。

そんなわけで、ずっと避けていたことにあえて挑戦してみて、とても充実したという、地味な話でした。










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by mosottto | 2017-09-13 14:54 | エッセイ | Comments(2)


夕方、息子を耳鼻科へ連れていった帰り、むしょうにソフトクリームが食べたくなった。

近所のケーキ屋の無料ソフトクリーム券があったことを思い出し、
「ソフトクリーム食べにいこうぜ」と、息子を誘うも、「ソフト?食べたくない、くまちゃんのお菓子(クマ型をした息子の好物のお菓子)がいい」と難色を示された。

「ほな、お母さんはソフト食べるし、別でくまちゃん買ってあげる」と言うと、「いいよ!行こう!」と晴れやかな顔になった。

補助輪付きの自転車をカタカタ言わせながら爆走する息子を、車が来ないかキョロキョロ見回しながら追いかけて、店へ向かった。

くまちゃんを買ってあげたものの、つやっつやのミルキーなソフトクリームを目の前にした息子は、「、、ちょっと食べたいな」と言い出した。

店を出て、歩きながら食べようか(それがおいしい食べ方だ)と思っていたが、ケーキ屋の前に置いてあるベンチで食べようと息子が提案してきたので、それに乗った。

店の前の道路は車の往来がかなり激しく、行き交う車を眺めながら、息子とベンチに腰掛け、ソフトクリームを食べた。

きっと知り合いが車で通りかかり、「めっちゃソフト食べてるやん」と見られていたかもしれない。
しかし、息子も一緒なのであまり違和感はないだろう。

半分以上息子にソフトを食べられつつ、わたしはぼんやり空を眺めた。

こういう時間が平和なときだ。
少しでも長く、こういう時間が続けばいい、そう思ったのである。


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by mosottto | 2017-09-05 13:07 | エッセイ | Comments(2)

人生ではっとする瞬間


誰かが、「人生の中で、おいしいものに出会って心動かされることが、たびたびあった」と言っていた。

自分はどうだろうか。
薬味や卵かけごはんなどの地味なものが好きなので、衝撃的な食への出会いというものは、まだ体験できないでいる。


しかし食ではないが、たびたび「あ」と、心動かされる瞬間が思い出すとあった。

それは、「日常の中の一瞬」「一場面」である。

どういう事かと言うと、ごく当たり前の日常生活で、「これ、映画のワンシーンやな」と思える瞬間にたびたび遭遇するのだ。

例えば、80過ぎた、よたよたのおじいちゃんが自転車をゆっくりこぎ、後ろにちょこんとおばあちゃんが乗っている、という場面。
学生が二人乗りするのはよく見かけるが、年老いた夫婦が二人乗りなど、あまり見かけない。
しかも、おばあちゃんが寄り添うように、ひっそりと身を丸くして乗っているので、とてもきゅんとするのだ。
かたかたと音を立てて、ゆっくりと二人が乗った自転車は進む。
夕暮れ時で、また夕日が彼らをやさしく照らすのである。



ある時は、大阪の通天閣周辺を歩いていたとき、ジェンベ(アフリカの太鼓)を道端で鳴らしている青年がいた。見るからにミュージシャンという風貌。
その横で煙草を吸っているおっちゃん。
たたき終えて去る青年に向かって、「兄ちゃん、うまいやんけ」と、おっちゃんは言う。
照れくさそうに青年は会釈する。
わたしは青年の後ろを歩く。
夕日が青年を照らし、後ろ姿のシルエットだけが強烈に目に焼き付く。
青年は立ち止まり、少し誰かを待っている様子。

少し経つと、青年の目の前に幼稚園バスが止まった。
中から元気よく「おとうちゃん!」と言って、小さな女の子が出てきた。
うれしそうに女の子は青年に抱きつき、二人は手をつなぎ、夕日の方向に歩いて行った。

その時のわたしの目は、完全にドキュメンタリーフィルムを撮っているカメラのレンズになっている。

映画にしたい!などと、その時は思うが、自分の目にしっかりと焼き付いているので、何年経ってもそういう映像は記憶から消えないで、ずっと覚えている。脳内上映をたびたびするわけだ。


かと思えば、烏丸通を歩いていたら、上空からちくわが落ちてきたこともある。しかも一口サイズの。
たまたま空を見上げたら何かが落ちてくるので、「雪か?」と思ったら、ぽてんと足元に転がったちくわ。
なぜ、と、つぶやくしかなかった。

またある時は、夏祭りで五人家族全員が立ち止まり、同じ方向を向いて、無言で冷やしキュウリをかじっている瞬間。
今日は節分ではないよね?と疑うくらいの真顔っぷりであった。


こんな瞬間を全部繋げていったら、どんな映画になるのだろう。




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by mosottto | 2017-09-02 02:42 | エッセイ | Comments(4)


このご時世、夫婦揃ってのガラケーで、夫に至っては、通話とショートメールのみの機能である。

しかし、日々支障がでてきている。

要は、みんなスマホだと、連絡手段がラインもしくは、SNSのメッセンジャーだったりするのだ。

私たち夫婦は、SNSを使用する時の手段はパソコンしかないので、家にいる間は困らないのだが、外出時、特に待ち合わせをする際に非常に不自由する時が多くなってきた。

大分前に、夫が友人とどこかの店で待ち合わせをした際、連絡手段がSNSしかないという相手だったために、時間に遅れる、という連絡を夫がわたしの携帯に、「その内容を、○○さんにメッセンジャーで伝えてくれ」と電話してきたこともあった。

わたしは夫のパソコンで、夫のSNSを開き、メッセンジャーで相手方に「いつも夫がお世話になっております。待ち合わせ時間に遅れるそうです。すみません。嫁より」と、送らねばならなかった。
相手から速攻、いいね!スタンプが送られてきた。

非常にめんどうくさい話だ。

先日も、スペイン人の友達のお兄さん(面識はない)が旅行で日本に来ているからと、夫が待ち合わせをして会いに行った。
「20時に京都駅の近くのマクドで待ってるらしい」と言い残して行った夫にかなりの不安がよぎった。
どこのマクドだよ!
京都駅周辺にいっぱいあるやろ!
そんなざっくりとした待ち合わせでいいのか!
わたしは心配を通り越し、怒りさえ沸き起こってきた。

案の定、30分後、夫から電話がかかってきた。
「今、ヨドバシのマクドにおるんやけど、いっこうに来ない。ホテルまで行くから○○ホテルの場所をネットで検索してくれないか」

ホテルの位置を調べると、八条口近くだった。
逆方向のマクドにどうやら居たようである。
「八条口って言ってくれればいいのに。。外国人やしわからんか」と、つぶやく夫の声を聞きながら、「もう切っていいか」と、吐き捨てて電話を切った。

ほんとうにめんどうくさい。

わたしはいつも家でパソコンの前で待機してるわけじゃないのだ!


ちなみにそのスペイン人とは無事に会えたようであるが、面識もない外国人(一応友人の兄という繋がりはあるものの)と、よく飲みにいけるよなあと本当に感心する。
七条にあるディープな飲み屋街、リド飲食街に連れていったら大変喜ばれたそうだ。
会うまでは「次の日は早朝に姫路に行くから遅くまでは飲めないなあ」と、弱気な発言をしていたスペイン人だったらしいが、結局深夜2時まで飲んだらしい。
盛り上がってるんじゃないか!


とにかく、夫だけでもスマホにしてくれ、と切に思う今日この頃である。



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by mosottto | 2017-09-02 01:10 | エッセイ | Comments(0)


8月。

11日は友達に会いに、大阪まで息子と遊びに行く。
息子より一才下の男の子がいるので、二人で大騒ぎ。母たちは音楽話をしかけるも、すぐに子供たちに邪魔される。
今では二人とも子持ちだが、ママ友ではなく昔からのつきあいなので、非常に気が楽である。秋に東京へ引っ越すので、とてもさみしい。


12日はお墓参り。西友で仏花を買い、清水五条のお寺へ向かう。猛暑日でただただのどが渇く。
墓地を抜け、茶屋でかき氷一個を家族三人で取り合うように食べる。ちゃわん坂は楽しそうな観光客でいっぱい。わたしたち家族三人は暑さで眉間にしわを寄せながら、坂を下りる。

13日は家族で海に行き、(渋滞に巻き込まれ、14時過ぎに到着したものの、海は思ったよりも冷たく、途中で雨に見舞われ、まさかの1時間で退散後、海横の芝生で夫のラグビー練習につき合わされ)軽い罰ゲームのような一日であった。

16日は岡崎にある親類マンションの屋上で、五山の送り火を観て、ご先祖さまを送り出し(義母がまるでテーマパークに来たかのような異様なはしゃぎっぷりで若干びびる)夏の余韻に浸る。

17日は息子はおじいちゃんと二人で遠足。
京都駅で駅弁を買って電車で食べ、山陰線で嵯峨野まで、トロッコ列車に乗り亀岡まで行き、保津川下りで嵐山まで船で下るという、なんとも定年後の夫婦が行きそうな渋いコースを堪能した4歳息子の一夏の思い出となった。(カブトムシまで買ってもらって帰ってきた)

20日は自治会の夏祭り。今年は夏祭り委員の福引担当にもなったので、ケーズデンキやら買い出しでバタバタであった。(何気に4等のボックスティッシュ150箱を運ぶのが大変であった。他の組長をしてるおばちゃんたち数人と、汗だくで笑いながらのティッシュ運びは、もはやいい思い出である)
当日の福引では夫婦で受付をし、くじを引いてもらう度に夫の私物であるパーカッションをフルに活用した。

4等のティッシュはティンシャというインドのベルでさみしく「ちーん」と鳴らし、3等2等は特大の鈴でシャンシャン鳴らし、1等特等においては、夫の笛や鳴り物でサンバのリズムでお祝いするという、大変騒がしい演出を行った。
楽しいものには子供は正直で、一気に小学生たちが集まり、自ら鳴り物係を率先してやってくれて大いに助かった。

途中でわたしは抜け、19時からの盆踊りに息子と参加。
去年も家族で狂ったように踊りまくったが、今年も息子と本気で一心不乱に踊った。(前日に踊りの練習にも参加したくらいの意気込みである)
盆踊り中に福引の1等や2等が出る度に、夫の鳴らすリオのカーニバルのようなサンバのリズムが盛大に聞こえてきて、盆踊りとリオの融合で異様な祭感をかもしだしていた。
参加してるおっちゃんおばちゃんもみんな爆笑で、終わった後も「いや~よかったで!」と大絶賛であった。

あの地域のお祭りでは一番盛り上がったのではないかと自負してるが、きっとうるさくて煙たがっていた人も中にはいただろう。
しかし1年に一度ということで多めに見てもらいたい。

これで我が家の一夏は終わったのだが、秋には息子の保育園の保護者会主催のイベントが控えている。
委員長を引いてしまったわたしは(実は去年から今年にかけて、保護者会でも自治会でも、一生分の役を引いてるのではいか、というくらい、当たりまくっている)、会議に準備にまだまだ気が抜けない。
これさえ終われば、あとはもう身軽になれる、、!!という思いを胸に、秋まで白目で突っ走るしかない。










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by mosottto | 2017-08-21 12:38 | エッセイ | Comments(4)

結婚すると何かが変わる


もともとわたしは、行動する時は常に考えて行動し、考えすぎて行動しなかったことが多いという、なんとも情けない性質を持っている。

夫はその逆で、何も考えずに行動でき、わりと場当たり的なところを持っている。

わたしがこの人と結婚しようと思ったところは、それにある。

結婚前に二度、二人で旅行をした。
ひとつは、わたしがプランをすべて考えた旅行。
もうひとつは、すべて夫に任せた旅行である。

わたしが考えたプランは宿も前もって決め、何から何まで不安な材料がないようにすべて予約済みのプランである。
安心感はあるが、特別面白味もないという無味無臭な旅であった。

夫に任せたツアーは宿も決めず、とりあえず現地へ行く!という行き当たりばったりなツアーである。
初めて行った土地なのに、すぐに道を覚えて、現地の人のように馴染む夫に少しびびった。すべて直観でどこへ行くのか決めるのだから。

結果、とても充実感があり楽しかったのは、夫に任せた方だった。

そういうわけで、この人と一緒にいたら面白いはずだという安易な発想で結婚してしまった次第である。


結婚五年目、先日家族で海にでかけようとはりきって出発した。

夫は睡眠不足のため、運転はわたしである。
高速道路をぶっぱなし、当初の予定とは違う海ポイントへ行くことに変更しようとしたところ、
「おれはそっち方面の道は知らないから、引き返した方がいい」と、弱気な発言をするではないか。

何を隠そう、我が家は夫婦揃ってガラケー、車にカーナビはない(正確にいうと付いているが、古いタイプのため、使わない方がましという選択である)、どこか遠出する時は、原始的な地図を確認してから行くという、アナログ文化甚だしい一家である。

大体の家庭なら、カーナビやスマホで道の確認がすぐにできるわけだが、うちはそうはいかない。
地図帳を観る or 通りすがりの人に道を聞く
というやり方だ。
プラス、根拠のない’勘’である。

その日は地図を持参していなかったので、夫はよくわからない道は行かないとの判断を下したが、わたしはそれを跳ね除け、大体案内板で’なんとかなるだろう’という一点だけで、向かった。

結果かなりの遠回りをしてしまったが、無事に目的地までたどり着いた。

海に入り狂喜乱舞の息子と、意外と海の冷たさに引いている夫を見ながら、ふと考えた。

5年前のわたしなら、まだペーパードライバーであったし、運転どころか、高速に乗るなんて考えられず、もっと言うと、目的地へのルートが確認できないという状況で、突っ込んでいく積極性は皆無だったはずだ。
確実にわかる目的地へ引き返していたに違いない。


五年で何かが少し変化している。


あと十年経てば、もっと変わっているのだろうか。





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by mosottto | 2017-07-26 14:20 | エッセイ | Comments(2)

外に出れば何かが起こる



梅雨真っ只中であるが、4歳の息子とほぼ毎日虫取りの日々である。

正確にはわたしが虫を捕まえ、息子が虫かごの虫を観察し眺めているのだが。

先日、黒アゲハを捕ってほしいと息子が言い出したので、虫取り網を一心不乱になって振り回していた。
蜜を吸ってじっとしている蝶を捕獲するのは安易だが、動いてる蝶の捕獲はなかなか難しい。

その日の公園では落ち着きのない蝶ばかりで、無駄に網を振り回すはめになった。

40手前になって如実に感じるのだが、頭でイメージしてる自分の動きと、実際の動きが明らかに違う。
イメージではぱっとすばやく動いているのに、実際の動きがスローモーションなのかと思うくらい遅いのだ。
この差に一瞬脳みそが揺れる。
完全に体がついていけていない。

しかも後ろで観てるだけの息子に、
「もう!おかあさん!ぱっと捕ってよ!」と、イラつかれる。

おかしい、おかしいと思いながら、変な汗をかいていたら、突然目の前に小学生の男の子が現れた。

とてもきらきらとしたきれいな眼差しで、彼はこう言うのだ。



「あのね、一匹だけ、捕ってあげようか?」


その言い方が、まるでおじいさんが自分の孫に諭してるかのような、とてもやさしい言い方なのだ。

わたしは一瞬ひるんだが、

「あ、ああ、お願い、願いします!」と、低姿勢で頼んだ。


彼はあっさりと一匹捕まえてくれた。

そして、じゃあ、一匹捕ったしね、という顔を残して、さわやかに去っていった。

その立ち居振る舞いにとても品があり、こんな王子様のような小学生がいんのか!と、しばらく呆然とした。



と、一息つく間もなく、突如公園にリードも首輪もしていない大型犬が乱入してきたのだ。

大暴走する大型犬(たぶんレトリバーだろう)に、喜んでいるのか、怖がっているのか、よくわからないテンションで逃げ回っている小学生たち。
公園がまるで生放送のドリフのコントのように、目まぐるしく犬と子供たちが端から端を行ったり来たりしていた。

わたしたち親子は呆然とそのはちゃめちゃな光景を眺めた。



もうわけがわからない。


犬は尻尾を振ってるので、遊んでほしいモードのようだが、息子は犬が苦手なので、すぐに帰ろう!と言い出し、結局どこの犬なのかもわからず公園を後にすることになった。


平凡な日常でも、日々なんだかよくわからないことの連続だ。








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by mosottto | 2017-06-22 14:06 | エッセイ | Comments(0)

人生吹き流し


五月、我が家にも高らかと鯉のぼりが泳いでいる。

息子に「お父さん鯉のぼりはどれ?」と問いかけると、吹き流しを指さした。

父親のことを吹き流しという息子。
一般の家庭であったらたぶんあり得ない話だろうが、我が家に至って言えば、なんとなく「吹き流しっぽい父親像」満載のため、否定しきれないところだ。

その場で爆笑した一同だったが、あいにく父親不在であった。
この事実を夫に伝えるかどうか些か迷ったが、わたしのお喋り虫がうずいて、気軽にぽんと伝えてみた。

一気に機嫌が悪くなるだろうかと観察していたら、夫は神妙な面持ちで目を閉じて考え込んでから、こう言った。

「そうか。そんな風に思っているのか。てんつく(息子)はおれに何か感じてるものがあるんだな」と、何やらわけのわからない哲学的思想に想いを馳せているようだった。

頭がくらっとなりながら、「しかし、吹き流しの存在ってなんなんだろうね?きっと何かありそう」と言うと、夫はまたロマンのあるような顔をしながら、「ちょっと調べてみてくれ」と言った。

早速ネットで調べてみると、いくつかの説があり、魔除けであったり、そもそも吹き流しが先で、鯉のぼりは後からの風習になったとも言われている。

その旨を伝えると、夫は薄ら笑いを浮かべながら、
「オリジナルということやな」と、自分の存在をとてもいい具合に表現し出したので、さっさと放っておくことにした。


無風の時は、ぐったりしてる鯉のぼりだが、強風になると、見事に音をたてて泳ぎ出す。
その姿を外からぼんやりと眺めていると、

「なんか、こんな立派な鯉のぼりが泳いでたら、堅気の人の家みたいやな」と夫がつぶやいた。

「え、うちは堅気じゃなかったの」と、思わず返してしまった、新緑香る夕暮れであった。




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by mosottto | 2017-06-01 14:01 | エッセイ | Comments(2)