2018年 02月 08日
死んで、生まれて、死んで、また生まれる。
人が死ぬという事実を体験したのは、今まで何度か遭遇した。
初めて、人が死ぬんだ、ということを知ったのは、幼稚園くらいの頃だろうか?
母の祖母のお葬式で(つまりわたしのひいおばあちゃん)、正確に言うと、火葬場で知った。
おばあちゃんっ子だった母は、その祖母の死を悲しみ、骨になった姿を見て、大きな声を出して、崩れ落ちるように泣いていた。
まだ幼かったわたしは、その母の後ろ姿をただぼんやりと眺めていた。
いつも笑顔で冷静な母が、感情をむき出しに、肩を揺らして泣いている姿にとても驚いた記憶がある。
その数年後、わたしの実の兄が死んだ。17歳だった。
お葬式ではたくさんの人たちが泣いていたのを、ぼんやりと眺めた。
わたしはちっとも泣けなかったのだ。
しかし火葬場に行き、白骨になった兄の姿を見て初めて、わたしは祖母を亡くした時の母のように、くずれ落ちるように泣いた。
内臓のあたりの骨が、黄色くなっていた。長期のガン治療によるものだという。
またその数年後に、祖父母が死んだ。
30代を過ぎて、恩師とも言えるおじさんが死んだ。
病院にお見舞いに行った数日後だった。
お通夜ではタバコをくわえた遺影と、ギターが飾られていて、ミュージシャンたちが夜通し歌っていた。
その数ヶ月後に、元気な産声をあげて、息子が生まれた。
その2年後、仕事仲間であった友人が、33歳という若さで死んだ。
音楽や文学を愛し、フランス映画に出てくる女優のようにうつくしい人だった。
そして、そのすぐ後に、夫の祖母が死んだ。
91歳という大往生であった。
ひ孫である、息子をとてもかわいがってくれ、それが生きる力になっていた。
3歳だった息子はひいばあちゃんの死をどのように受け止めていたのかはわからないが、まるい目をして、ひいおばあちゃんの骨を一生懸命拾っていた。
しばらくして、息子が思い出したかのように言いだした。
「おおばあちゃんな、お空の上で、赤いスポーツカーに乗ってるで」
空を見上げると、今まで死んでいった人たちが遠くでまだ生きてるかのように感じる。
わたしたちは生まれたら、必ず、死ぬ。
それは呆気なく終わるのだけれど、でも、またどこかでうつくしい命が誕生しているのだ。
by mosottto
| 2018-02-08 12:18
| エッセイ